広報邂逅記

広報宣伝に携わる私が、世の中の面白いこと、美味しいものや温泉鉄道旅を紹介します。(⌒∇⌒。)三(。⌒∇⌒)。

ブログ141025 明治村 蒸気機関車 SL12号 3

2014-11-06 21:18:22 | 食べ物




日除けも木で出来ている。
明治に日除けを客車につけると言う発想がユーザビリティに富んでいる。

ちょっと逆光で見づらくてすみません。

「とうきやう駅」について客車と切り離されたSL12号。

人間の大きさと比べると小振りなのがわかる。
これで新橋→横浜を走っていたのだから凄いなぁ~。

大井川鉄道同様の手押しの転車台。

向きを変えて煙りをはき、凛々しい姿のSL12号。
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ブログ141025 明治村 蒸気機関車SL12号

2014-11-06 21:15:53 | 食べ物




機関車の連結はこの鎖だけ。
明治村内ではそんなにスピードを出してないからいいが、新橋→横浜間を走っていた時はこの鎖だけで大丈夫だったのだろうか?

こちらは客車のデッキ。運行中は外に出れないのが残念。

500円で購入した切符は硬券。

横文字が右から左なのが明治を感じる。

もちろん客車内は木製。このノスタルジックさがたまらない。

車窓から見える「菊の世酒蔵」。
車窓からこういったいにしえの風景が見えるとタイムスリップした気分になる。




以下、明治村HPによる客車の紹介

三等客車ハフ11・13・14

明治村で使用している客車は3両あり、そのうちハフ11は青梅鉄道で「メ4」として使われた後、大正13年に山形県高畠鉄道に譲渡され「ハ2」となり、さらに昭和11年秋田県雄勝鉄道で「ハフ11」として使用された。また、ハフ13・14は新宮鉄道で使用され、同鉄道の国有化に伴い鉄道省の所属に、その後昭和17年ハフ11と同様雄勝鉄道に移り、「ハフ13・14」となった。

出典:明治村HPより
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ブログ141025 明治村

2014-11-06 08:03:10 | 食べ物




鉄道寮新橋工場を見学し機関車に乗ろうと、『なごや』駅へ。
帝国ホテルのある『とうきやう』駅までの5分間を走る。

料金は500円。

ホームからは湖が見渡せる。本当に天気がいい。

こちらは機関車のプレート。

明治初期にイギリスから輸入され、あの新橋→横浜間を走っいた機関車だっ!
その後、昭和32年、つまり戦後まで走っていたと言うのだから驚きだ。

そして、パーク内とはいえ、今も現役で、150年近く走り続けているのだから凄い。

いつも思うが昔のモノの方が素晴らしい逸品が多いというかモノがいい。



以下、明治村HPより


一両、蒸気機関車12号は鉄道開業の2年後、1874年(明治7)イギリスから輸入されたものである。輸入当初の車輌番号は23、新橋―横浜を走り、明治42年の車輌の改番で165となり、明治44年に尾西鉄道に払い下げられ、12号となった。
尾西鉄道と名古屋鉄道が合併した後も、番号はそのまま引き継がれ、昭和32年まで使用されていた。

出典:明治村HP
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ブログ141025 明治村 鉄道寮新橋工場3

2014-11-06 00:02:03 | 食べ物



この万力のような機械は鉄道用らしいが、一体何に使ったのだろうか?
今なら小さな道具で済むんだろうなぁ。
当時、使用していた頃の写真とかあったらいいのになぁ~。
新橋工場の内観。
ここでは何を造ったり直したりしていたのだろうか?

この柱には
明治十五年と書いてあるのだろか?

東京鉄道○○○?




最後の写真は外観。
工場だけにシンプルだ。

そこで、この工場について調べてみると、明治村の配布資料や近いによると、この建物は、機関車の修復所で修理したりするための工場だそうです。鉄道を管轄する役所は最初は鉄道寮と呼ばれていていましたが、1877(明治10)年に鉄道局
へと改称されました。

鋳鉄柱をはじめ外壁の鉄板、サッシ等、全ての材料をイギリスから輸入し、イギリス人技術者の指導の下に建設された。中空鋳鉄柱の両側にツバを出して壁板を取り付け、又、鉄筋など細い鉄材で小屋組トラスを組み上げる等、鉄造プレハブ建築物としても重要なものであり、またきわめて単純で構造力学の理にかなったものであるようです。

現在、この建物は二棟が並んだ大きなものになっているが、はじめ新橋に建設された時は一棟だけで、大正のはじめ大井町への移設の際に拡張された。その際他から転用された鋳鉄柱等には「明治十五年東京鉄道局鋳造」と銘が鋳出されているが、これは明治10年代に早く舶来品を模して国産化が始められたことを物語る。

ちなみに、このように最初の頃は工場を造るのに外国から材料を輸入していましたが、御料車が格納してある鉄道局新橋工場の建物は日本の材料、技術で出来ているそうです。

出典:明治村HP
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