広報邂逅記

広報宣伝に携わる私が、世の中の面白いこと、美味しいものや温泉鉄道旅を紹介します。(⌒∇⌒。)三(。⌒∇⌒)。

ブログ141025 明治村 帝国ホテル

2014-11-10 22:35:25 | 食べ物




今日も天気が良かったので、正面からの外観写真も美しく撮れた。

明治村に残される旧帝国ホテル中央玄関は、20世紀建築界の巨匠、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトによって設計され、大正12年(1923)4年間の大工事の後に完成した。

大谷石や筋の入ったレンガや透かしテラコッタなど、資材も珍しいし、デザインも中南米あたりの遺跡を彷彿させる。

フランク・ロイドは大谷石が脆いということを知らなかったのだろうか、残念ながら、大谷石部分は当初のものはかなり傷んでしまっている。

前回、来た時は冬だったので、レストランも閉まっていて寂しかったが、今日は開いていたので、お茶をすることに。

レプリカの椅子やバルコニーを撮したいのだが、周りのおばちゃんたちが映り混んでしまい、なかなか上手く撮れない。
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ブログ141025 明治村 高田小熊写真館3

2014-11-10 22:14:35 | 食べ物



書生風の案内人のお兄さんが、せっかくだからと暗室も案内してくれた。
電気の調整の出来ない時代に色々と工夫されていた。

撮った写真をネガに焼き付けるのは、こんな機械で沢山の電球とスイッチで出来ている。

スイッチの入れる場所によって、ピンがボケたりするので、背景をぼかしたり出来るらしい。

今では考えられないが、画期的な機械だ。

こちらが、その機械で焼き付いたネガ。

密閉された部屋で薬品を使うので、30分に一回は空気の入れ替えを行っていたらしい。

こちらは一階の玄関入って直ぐの居間。

洋風な応接なので、お客様の待合室に使っていたのだろうか?

外観はとても可愛らしい装い。
二階の撮影スタジオの屋根の明かり取りが印象的だ。



明治村HPより

銀板写真と呼ばれる写真術が日本に渡来したのは幕末1840年代のことである。続いて1850年代の末頃湿板写真が導入され、明治中期には乾板写真に移行し、さらに今日のフィルムへと変遷をとげた。  明治時代においては、写真術は高度な理化学の知識と長年月の修練を要し、誰にでも簡単にできるというものではなかった。
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ブログ141025 明治村 高田小熊写真館2

2014-11-10 22:13:32 | 食べ物



二階撮影スタジオの脇の控え室は姿見やお化粧直しの鏡もしつらえてあり、机には当時の物ではないだろうが、撮影用の小物や帽子などが用意されていた。

お客様用のエリアは徹底的にモダンでお洒落に設計されているが、住居部分は非常に質素であるのが、階段1つとってもわかる。

この写真館には家族の他にお弟子さんの従業員が数人いたらしあが、二間続きの和室しかない一階住居で、そんなに大勢がどおやって暮らしていたのだろうか?

トイレは住居内にあったようだが、お風呂は銭湯だったらしい。
街中にある写真館だから、あまり土地に余裕はなかったようだ。
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ブログ141025 明治村 SL12号 5

2014-11-10 22:12:32 | 食べ物

ゆっくりゆっくりと進むSL12号の後ろ姿をお見送り。
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ブログ141025 明治村 高田小熊写真館1

2014-11-10 22:11:32 | 食べ物




前回、来た時は気づかなかったが、新潟にあったという写真館があった。

証明が無い時代だったので、自然光を上手く取り入れる仕組みになっていた。

自然光を取り入れるために、スタジオは2階になっていたそうで、部屋の隅には、お客様が着替えたり、お化粧を直したりする控え室もあった。

1階の入口から2階のスタジオまでの導線や控え室などは、お客様のために、モダンな洋服なデザインで凝っていたが、1階の生活エリアは和風で質素で、天井も低くスタジオ中心の生活環境だったことがわかる。

控え室には撮影の小道具などもあったらしく、今も昔も記念写真を撮る前のドキドキ感は変わらないようだ。


読売新聞朝刊掲載日:2005年1月20日
明治末に、越後高田(現・新潟県上越市)に建てられた。人工照明が無い時代だけに、外光を効果的に取り入れる工夫が必要で、2階スタジオ北側の屋根全面をガラス張りとし、白黒天幕で光量を調節できるようにしてあった。


明治村HPより
銀板写真と呼ばれる写真術が日本に渡来したのは幕末1840年代のことである。続いて1850年代の末頃湿板写真が導入され、明治中期には乾板写真に移行し、さらに今日のフィルムへと変遷をとげた。  明治時代においては、写真術は高度な理化学の知識と長年月の修練を要し、誰にでも簡単にできるというものではなかった。

このため写真師は文明開化の花形職業として高い収入と大きな名声を得ていたのである。
この建物は、昔から豪雪地として知られ、日本のスキー発祥の地である越後高田の街なかに、明治41年(1908)頃建てられた洋風木造二階建の簡素な写真館である。階下には応接間、暗室のほか作業室兼用の居室があり、二階に写場(スタジオ)が設けられていた。

創建以後、時世の変化に応じて増築や模様替えが重ねられていたため、移築に際しては創建時の姿に復原することに努め、背面及び内部の後補部分は取り去った。しかし、正面の突出部分は改造後の姿をそのまま復原した。
大工棟梁によって地方に建てられた明治末大正初期の写真館の俤が偲ばれる。

当時、写真師が写場を設営するにあたり最も苦労したのは、人工照明がないため、外光を写場にいかに効果的に取り入れるかであった。そのため屋根やカーテン、反射板等に様々な工夫が凝らされ、この写真館でも北側の屋根を全面ガラス張にし、独特の白黒天幕を用いて光景を調節できるようにしている。

又、写真師は写真館の外観とともに、「書割」と呼ばれるバックや小道具にも力を注ぎ、専門の絵師にバックを描かせたり、高価な舶来の小道具を購入する等、その豪華さを競い合った

明治初期の湿板写真は、ガラス板の上に乳剤を塗り、それが乾かないうちに写したため、この名がある。写したガラス板のネガは黒いビロードにのせてポジ像に見せ、これを桐箱に入れて客に渡した。
撮影には長時間の露出を要するため、「首おさえ」や「胴おさえ」を使って体を固定した。
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