前回、来た時は気づかなかったが、新潟にあったという写真館があった。
証明が無い時代だったので、自然光を上手く取り入れる仕組みになっていた。
自然光を取り入れるために、スタジオは2階になっていたそうで、部屋の隅には、お客様が着替えたり、お化粧を直したりする控え室もあった。
1階の入口から2階のスタジオまでの導線や控え室などは、お客様のために、モダンな洋服なデザインで凝っていたが、1階の生活エリアは和風で質素で、天井も低くスタジオ中心の生活環境だったことがわかる。
控え室には撮影の小道具などもあったらしく、今も昔も記念写真を撮る前のドキドキ感は変わらないようだ。
読売新聞朝刊掲載日:2005年1月20日
明治末に、越後高田(現・新潟県上越市)に建てられた。人工照明が無い時代だけに、外光を効果的に取り入れる工夫が必要で、2階スタジオ北側の屋根全面をガラス張りとし、白黒天幕で光量を調節できるようにしてあった。
明治村HPより
銀板写真と呼ばれる写真術が日本に渡来したのは幕末1840年代のことである。続いて1850年代の末頃湿板写真が導入され、明治中期には乾板写真に移行し、さらに今日のフィルムへと変遷をとげた。 明治時代においては、写真術は高度な理化学の知識と長年月の修練を要し、誰にでも簡単にできるというものではなかった。
このため写真師は文明開化の花形職業として高い収入と大きな名声を得ていたのである。
この建物は、昔から豪雪地として知られ、日本のスキー発祥の地である越後高田の街なかに、明治41年(1908)頃建てられた洋風木造二階建の簡素な写真館である。階下には応接間、暗室のほか作業室兼用の居室があり、二階に写場(スタジオ)が設けられていた。
創建以後、時世の変化に応じて増築や模様替えが重ねられていたため、移築に際しては創建時の姿に復原することに努め、背面及び内部の後補部分は取り去った。しかし、正面の突出部分は改造後の姿をそのまま復原した。
大工棟梁によって地方に建てられた明治末大正初期の写真館の俤が偲ばれる。
当時、写真師が写場を設営するにあたり最も苦労したのは、人工照明がないため、外光を写場にいかに効果的に取り入れるかであった。そのため屋根やカーテン、反射板等に様々な工夫が凝らされ、この写真館でも北側の屋根を全面ガラス張にし、独特の白黒天幕を用いて光景を調節できるようにしている。
又、写真師は写真館の外観とともに、「書割」と呼ばれるバックや小道具にも力を注ぎ、専門の絵師にバックを描かせたり、高価な舶来の小道具を購入する等、その豪華さを競い合った
明治初期の湿板写真は、ガラス板の上に乳剤を塗り、それが乾かないうちに写したため、この名がある。写したガラス板のネガは黒いビロードにのせてポジ像に見せ、これを桐箱に入れて客に渡した。
撮影には長時間の露出を要するため、「首おさえ」や「胴おさえ」を使って体を固定した。