清水区にある戸田書店から発行されている『季刊清水』という本があります。
第38号の特集は「巴川をさかのぼる」で、巴川製紙所の正門の門柱「三ツ石」について書かれていたので、見に出かけました。
と、いっても、ここのすぐ近くにあるスーパーへ行くついでなんですが…。
そして、そのスーパーが建っていたところも、元は製紙工場の敷地でした。
以前からこの門についての由来はなんとなく聞いたことがあり、工場の前の道もよく通るのですが、じっくりと眺めたことはありませんでした。
清水区入江一丁目自治会によって立てられた「三ツ石の由来」の碑と『季刊清水』によると、この石は徳川家康が駿府城築城の際に、三河から船で運んだものだそうです。
ところが陸揚げができず船が転覆し、巴川に埋没してしまったそうです。
川に残された三つの大石を里人は「三ツ石」と呼ぶようになり、いつしか石の行方はわからなくなってしまい、言い伝えだけが残ったそうです。
明治27年(1894年)巴川製紙所の工場建設のときに発見され、うち二つを引き上げ門柱としたとのことです。
伝説としてしか残っていなかったものが、実際に見つかったときの驚きって…。
あまりに見慣れてしまった風景だけれど、由来をじっくり読んだ上であらためて見つめてみると、門柱の石につい触れたくなりました。
第38号の特集は「巴川をさかのぼる」で、巴川製紙所の正門の門柱「三ツ石」について書かれていたので、見に出かけました。
と、いっても、ここのすぐ近くにあるスーパーへ行くついでなんですが…。
そして、そのスーパーが建っていたところも、元は製紙工場の敷地でした。
以前からこの門についての由来はなんとなく聞いたことがあり、工場の前の道もよく通るのですが、じっくりと眺めたことはありませんでした。
清水区入江一丁目自治会によって立てられた「三ツ石の由来」の碑と『季刊清水』によると、この石は徳川家康が駿府城築城の際に、三河から船で運んだものだそうです。
ところが陸揚げができず船が転覆し、巴川に埋没してしまったそうです。
川に残された三つの大石を里人は「三ツ石」と呼ぶようになり、いつしか石の行方はわからなくなってしまい、言い伝えだけが残ったそうです。
明治27年(1894年)巴川製紙所の工場建設のときに発見され、うち二つを引き上げ門柱としたとのことです。
伝説としてしか残っていなかったものが、実際に見つかったときの驚きって…。
あまりに見慣れてしまった風景だけれど、由来をじっくり読んだ上であらためて見つめてみると、門柱の石につい触れたくなりました。
ワクワクしちゃいますねぇ。
400年近くも暗い川底に沈んでた石が
再び日の光のもとへ。
あと一つは今も沈んだままなのでしょうか…。
私ったら初めて気がつきました。
そ、そうですよねぇ、あと一つの石。
どこに埋もれているんでしょう。
私はまったく思いが至りませんでした。
今の技術なら、探知機みたいので川底を探って、
重機などを使えば、引き揚げることができそうですね。
>再び日の光のもとへ
そう思うとワクワクしてきます。
「三ツ石」の話、全然知らなかったなあ、、、。
だとしたら この門柱は「木曽石」かな?
いい ウンチク が聞けて、誰かに自慢できそうです。
駿府城とか、久能山東照宮、そう言えば徳川家康が造らせたんだった、、、。
死んだ後に 「神」 なろうとは、図々しいゾ。
慶喜って、駿府城に居たんだよネ。
静岡の物価が高く、「殿様商売」と言われるのは、
駿府城の辺りが、幕府の天領(公領)だった名残らしいです。
よく使っている言葉でしたが、すごく身近なところから生まれた言葉だったんですね。
「85へえ」くらいです。
慶喜…は、確かそうだったと思います。
郷土史を知ってみると、日常的に町の風景にあったものの見方が変わってくるものだと思いました。