らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

熊野古道を歩く(その1)岩代王子

2012-02-07 | 趣味

一昨日の日曜日、私が勤めてい会社のOB会の中にある同好会の一つ、”歴史探訪同好会”のメンバーと熊野古道(紀伊路ルート)を歩いてきました。
そこで今日から「熊野古道を歩く」シリーズを数回に分けてご紹介します。

私が同会のメンバーと熊野古道を歩くのは今回で5回目です。
今回歩くコースは、JRきのくに線岩代駅の近くにある「岩代王子」から「三鍋(みなべ)王子」までと、南高梅(和歌山県の代表的な梅の品種)の産地として有名な南部(みなべ)梅林を訪ねる
14㎞~15㎞のコースです。
当日は、前日までの寒い曇天と打って変わって晴天に恵まれ、無風で日中の気温も10度くらいになり、暖かくてウォーキングには最適の日和でした。
参加者13名は出発地点であるJRきのくに線・岩代駅に集合し、最初の王子である「岩代王子」を目指しました。

・JR和歌山駅から“紀勢線(きのくに線)”で所要時間 1時間32分の所にある、集合場所の岩代駅(無人駅)です。


今回探訪する王子社は海岸近くにあって参詣道は比較的平坦なコースとなっていました。
岩代駅の近くにある有間皇子(ありまのみこ)の「 結び松古跡」の石碑が建っている古道を通り、最初の「岩代王子」を目指しました。

「有間皇子(ありまのみこ)」
孝徳天皇(第36代:在位645年7月~654年11月)の皇子であった有間皇子は、皇位継承をめぐる複雑な争いの中で19歳の若さで散っていった悲運の人です。
日本書紀には、大化の改新を成功させた中臣鎌足と斎明天皇の皇子・中大兄皇子(後の天智天皇)は、その権力を強化するために自らの政治路線を妨げるものを排除しようとしました。
その一人に社会的に無視できない人として有間皇子がいたのです。蘇我赤兄(そがのあかえ:蘇我馬子の孫)は機を見て皇子に謀反を仕向けます。
罠にはまった皇子は釈明のため、牟婁(むろ:白浜)の温泉にいる斎明天皇のところに参り、釈明をしました。
その後、有間皇子は中大兄皇子の尋問を直接受けますが、「天と赤兄と知らむ、吾全ら解らず」と、述べただけで、その帰路、藤白坂で絞殺されたものです。

・有間皇子(ありまのみこ) 結び松古跡の石碑です。


「岩代王子」
岩代王子の説明板によれば次のように書かれています。
『熊野古道は岩代王子から千里の浜に出ます。天仁2年(1109年)熊野に参詣した藤原宗忠は、10月21日に「石代(いわしろ)王子」に奉幣し、その約100年後の建仁元年(1201年)、
後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家も、10月12日に「磐代(いわしろ)王子」に参詣しています。
上皇や女院の御幸の時に、この王子社と那智浜の宮では、拝殿の板を削って供奉人(ぐぶにん)の名前と参詣の回数を連署し、打ち付ける習わしがありました。
『新古今和歌集』にはこの習わしを真似て拝殿の長押(なげし)に書きつけた
     「いはしろの 神はしるらん しるべせよ たのむ憂き世の 夢の行くすゑ」という歌が載せられています。
明治時代には王子神社となり、明治42年(1909年)に、八幡神社(現:西岩代八幡神社)に合祀されましたが、旧社地に社殿は再建されました。』

・岩代王子の鳥居です。


『平家物語』巻10には、出家した平維盛が高野山から熊野に向かう途中、この岩代王子に立ち寄ったとあるそうです。

・岩代王子の社です。