時代劇を観ていると、いろいろな武家の家紋が見られます。
有名なところでは徳川家の「葵紋」、豊臣秀吉の「桐紋」、織田信長の「木瓜紋(もっこうもん)」、忠臣蔵で有名な浅野匠頭長矩の家紋は「浅野鷹の羽」といって、渦巻文様をした「違い鷹の羽」で、右を上に置いている「右重ね」紋です。
私の実家は浅野家のような渦巻文様はありませんが、左重ねの普通の「違い鷹の羽」の家紋です。
そこで今日は我が家の家紋について調べてみました。
「鷹の羽(たかのは)」紋は、日本十大紋のひとつです。
鷹は太古から人間と関わりを深く持っていましたが、それは、その美しい姿、雄々しい振る舞いはもちろんのこと、鷹狩りでご存じのように人間と感情をかわすことができる唯一の猛禽類だったからと言われています。
鷹の羽根は古来より武家にはとても人気のあるシンボルだったようで、武礼(ぶらい:武官が礼服の際に用いた冠)の被り物に鷹の羽を差すなどの習慣もありました。
江戸時代には実に120家の大名旗本が、この鷹の羽紋を用いていたということです。
当然デザインのバリエーションもたくさんのものがありますが、人気のあるものは羽根を交差させた「違い鷹の羽」系だったそうです。
・これが「丸に違い鷹の羽」紋です。
武家でもない田舎の農家の我が家が、何故、「鷹の羽」の家紋を持っているのか?
そこで家紋の由来について調べてみました。
「家紋」
家紋の数はおよそ2万点あると言われており、その成り立ちは平安時代中期頃とされています。
当時は家紋(家の紋=シンボル)というよりも、身印(みしるし)と呼ばれ、高貴な人を象徴する目印として、牛車や持ち物にマークとして用いられたようです。
「貴族の紋章から武家の紋章へ」
平安時代に個人のシンボルマークとしてスタートした紋は、その認知度が高まるにつれ、家の紋章=家紋として定着していきました。
そして貴族達が用いていた紋章を、権力を引き継いだ武家達も用いるようになります。
当時の家紋は、現代のように出自を表す紋章としての意味よりも、戦場で敵味方を区別する軍事的な要素が強かったため、シンプルで判別しやすい意匠が好まれたようです。
「町人にも家紋が」
家紋というと武家専用と思われがちですが、江戸も元禄時代になると、家紋は庶民階級に大流行します。
流行のリーダーはいつの時代も芸能人達であったようで、役者や遊女が競って紋を付けたことから、町衆(大衆)も好みの紋を選んで身にまといました。
ここでは封建的な意味合いはなく、純粋なファッション、遊びの文化として家紋が脚光を浴びたのだそうです。
「家紋は文明開化の副産物」
封建社会が崩壊した明治になると、庶民階級にも苗字・家紋が許されるようになったことから、この時代に家紋を定めた家は大変多いとされています。
明治になって家紋は大ブレークしたようです。
使用された紋は、家に伝わる「男紋(丸がある紋、女紋は丸がない)」や、地域の城主や名士達の紋を流用することが多かったようです。
洋風化された現代では、家紋は冠婚葬祭やお墓の紋章としてしか、私たちに馴染みはありませんが、その多様な意匠、昇華されたデザイン性は世界にも大変評価されているそうです。
我が家の家紋の「丸に違い鷹の羽」は十大家紋の一つで、男紋です。
農家でありながら家紋を持っていると言うことは、明治時代の先祖が文明開化の副産物として人気のある家紋を取り入れたのかもしれません。
(参考)
ウィキペディアが示す十大家紋は次の通りです。