らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

家紋(丸に違い鷹の羽)

2017-08-11 | 雑学

時代劇を観ていると、いろいろな武家の家紋が見られます。
有名なところでは徳川家の「葵紋」、豊臣秀吉の「桐紋」、織田信長の「木瓜紋(もっこうもん)」、忠臣蔵で有名な浅野匠頭長矩の家紋は「浅野鷹の羽」といって、渦巻文様をした「違い鷹の羽」で、右を上に置いている「右重ね」紋です。

私の実家は浅野家のような渦巻文様はありませんが、左重ねの普通の「違い鷹の羽」の家紋です。
そこで今日は我が家の家紋について調べてみました。

「鷹の羽(たかのは)」紋は、日本十大紋のひとつです。
鷹は太古から人間と関わりを深く持っていましたが、それは、その美しい姿、雄々しい振る舞いはもちろんのこと、鷹狩りでご存じのように人間と感情をかわすことができる唯一の猛禽類だったからと言われています。
鷹の羽根は古来より武家にはとても人気のあるシンボルだったようで、武礼(ぶらい:武官が礼服の際に用いた冠)の被り物に鷹の羽を差すなどの習慣もありました。

江戸時代には実に120家の大名旗本が、この鷹の羽紋を用いていたということです。
当然デザインのバリエーションもたくさんのものがありますが、人気のあるものは羽根を交差させた「違い鷹の羽」系だったそうです。

・これが「丸に違い鷹の羽」紋です。


武家でもない田舎の農家の我が家が、何故、「鷹の羽」の家紋を持っているのか?
そこで家紋の由来について調べてみました。
「家紋」
家紋の数はおよそ2万点あると言われており、その成り立ちは平安時代中期頃とされています。
当時は家紋(家の紋=シンボル)というよりも、身印(みしるし)と呼ばれ、高貴な人を象徴する目印として、牛車や持ち物にマークとして用いられたようです。

「貴族の紋章から武家の紋章へ」
平安時代に個人のシンボルマークとしてスタートした紋は、その認知度が高まるにつれ、家の紋章=家紋として定着していきました。
そして貴族達が用いていた紋章を、権力を引き継いだ武家達も用いるようになります。
当時の家紋は、現代のように出自を表す紋章としての意味よりも、戦場で敵味方を区別する軍事的な要素が強かったため、シンプルで判別しやすい意匠が好まれたようです。

「町人にも家紋が」
家紋というと武家専用と思われがちですが、江戸も元禄時代になると、家紋は庶民階級に大流行します。
流行のリーダーはいつの時代も芸能人達であったようで、役者や遊女が競って紋を付けたことから、町衆(大衆)も好みの紋を選んで身にまといました。
ここでは封建的な意味合いはなく、純粋なファッション、遊びの文化として家紋が脚光を浴びたのだそうです。

「家紋は文明開化の副産物」

封建社会が崩壊した明治になると、庶民階級にも苗字・家紋が許されるようになったことから、この時代に家紋を定めた家は大変多いとされています。
明治になって家紋は大ブレークしたようです。
使用された紋は、家に伝わる「男紋(丸がある紋、女紋は丸がない)」や、地域の城主や名士達の紋を流用することが多かったようです。
洋風化された現代では、家紋は冠婚葬祭やお墓の紋章としてしか、私たちに馴染みはありませんが、その多様な意匠、昇華されたデザイン性は世界にも大変評価されているそうです。

我が家の家紋の「丸に違い鷹の羽」は十大家紋の一つで、男紋です。
農家でありながら家紋を持っていると言うことは、明治時代の先祖が文明開化の副産物として人気のある家紋を取り入れたのかもしれません。

(参考)
ウィキペディアが示す十大家紋は次の通りです。



花オクラ

2017-08-10 | 

ネバネバ食品は体によいと言われています。
ネバネバの主成分は、たんぱく質とマンナンなどの糖が結合した「ムチン」、水溶性の食物繊維「アルギン酸」「ペクチン」などです。
・ムチンはたんぱく質分解酵素を多く含み、いっしょに食べた肉、魚などのたんぱく質の消化吸収を助け、消化不良を防ぎます。
 また消化器・呼吸器の粘膜を保護して胃炎や胃潰瘍、かぜなどを予防するほか、細胞を活性化して老化を予防する効果もるそうです。
・そして、アルギン酸ペクチンは血中コレステロール値を下げたり、糖の吸収を抑えて糖尿病を予防します。
 また腸内の善玉菌を増やして便秘を予防する働きもあるということです。
・他にもネバネバ食品に含まれるコンドロイチン硫酸は、関節や軟骨を保護したり、肌のみずみずしさを保つ効果があるそうです。

ネバネバ食品の代表には次のようなものがあります。
・イモ類……ヤマイモ、サトイモ
・野菜類……オクラ、モロヘイヤ、アシタバ、ツルムラサキ
・海藻類……コンブ、ワカメ、メカブ
・きのこ類……なめこ
・加工食品……納豆

そのネバネバ食品の一つにオクラがあります。
今日はオクラの中でも花を食用にする「花オクラ」をご紹介します。

オクラの花は「世界で一番美しい野菜の花」と言われています。
実を食べる一般のオクラの花は通常7~8センチの花を咲かせます。

・これがその実を食べるオクラの花です。


一方、実は食べず、花を食べる品種に「花オクラ」があります。
花オクラの花は、大きいものでは30センチ近くにもなる大きな花を咲かせるようですが、私の畑で咲いた花は17~18㎝ほどでした。
それでも、実を食べる一般のオクラの花と比べると3倍近い大きさの美しい花です。

・これが花オクラの花です。


花オクラはトロロアオイの別名で、アオイ科トロロアオイ属の植物です。
原産地は中国で、この植物から採取される粘液はネリと呼ばれ、和紙作りのほか、蒲鉾や蕎麦のつなぎ、漢方薬の成形などに利用されるそうです。
一方、オクラもアオイ科トロロアオイ属の植物ですが、原産地はアフリカ北東部でエチオピアが有力だそうです。

・大きい花が花オクラ、小さい花は一般のオクラの花です。花オクラの右に突き出ているのは蕾です。


花オクラはその美しさもさることながら、一日花と言われる種類で、花自体が一日で散り、もしくは萎んでしまい、食すには不向きになります。
また、花として収穫してもすぐに丸まってしまい、冷蔵庫で数日はもっても見た目の美しさは損なわれます。
このようなことから市場に流通することはないようです。

花オクラには、オクラの香りと粘りがあり、野菜らしい濃密な甘さがあり、花びらを刻んでサラダにしたり、花びらで生ハム等をくるんだりと、食感と彩りが楽しい食用花なのです。

花オクラのレシピはネット上にたくさんありますが、食べてみたい方は自分で種を蒔く以外に方法はありません。
食べたい方、花を観賞したい方、栽培して見ては如何でしょうか?
綺麗な花なので、食べなくとも、花を眺めるだけで感動するかも知れませんよ。

・左に萎んでいるのは前日に咲いた花オクラです。



涼しい顔

2017-08-09 | 雑学

一昨日は大阪泉州地区は台風5号の影響で暴風雨に見舞われました。
幸いにして家屋等には被害はありませんでしたが、畑に行くとトマトやオクラ、ゴマの茎が倒れており、昨日はその修復に追われました。
最高気温が32度になった昨日は、少し動いただけで汗、汗、汗で、汗が顔や体中から噴き出してきます。
日陰に入って涼みながらの作業でしたが、午前中には応急的修復は終わりました。

さて、暑い時には「涼」と言う漢字をみると、何となく「涼」を感じませんか?
宮城県では「涼・宮城(りょうぐうじょう)」という観光動画をYouTubeにアップしています。
それがこれです。


ところで、暑さとは関係ありませんが、「涼」のつく慣用句に「涼しい顔」があります。
この言葉は、例えば、「皆が怒られていても、彼だけは涼しい顔をしている」とか「彼女はどれだけ罵倒されても涼しい顔だ」などと使用されます。
この場合の「涼しい顔」という言葉を「自分は当事者ではない、無関係」という意味で使っていることはありませんか?

実は、「涼しい顔」を「自分には関係ないので平気な顔」という意味で表現することは間違いなのです。
「涼しい顔」には「関係があるのに、まったく関係のない表情をしている」という意味があるので、使い方に注意が必要です。

広辞苑では、自分は無関係と言わんばかりの、そ知らぬ顔。と説明しています。
辞書が示すように、「涼しい顔」は「潔白・無関係のような顔をする」ということから「自分に関係があるのに、なんの関係もない表情をしている」、「しらばくれている」というのが正確な意味となります。

よく聞いたり、使われる慣用句です。
正確に使用したいですね。


阿鼻叫喚

2017-08-08 | 時事

一昨日の6日には広島で72回目の原爆忌式典が催されました。そして、明日は長崎で長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が行われます。
広島の式典に比べ、長崎の式典中継はあまり行われておらず、地元からはこれを批判する声も挙がっているようです。
広島も長崎も原爆投下による惨禍は同じです。
核が再び使用されることがないように、この地球上から核兵器を廃絶し、そして世界恒久平和を実現するためにも、マスコミ各社には、この式典の模様を世界に向けて発信していただきたいものです。

四字熟語に「阿鼻叫喚(あびきょうかん)」があります。

「阿鼻」とは、仏教で説く八大地獄の第八で、地下の最深部にある最悪の地獄のことで、「叫喚」とは、泣き叫ぶことです。
この地獄には父母を殺すなどの最大の罪を犯した者が落ち、身を焼かれ絶え間なく苦しみを受けるといわれ、諸地獄中、最も怖い地獄だと言うことです。
この熟語は、そこに落ちた者が苦しみに堪え切れずに泣き叫ぶありさまを、この世にあっても思い描かせるような凄まじい惨状を形容して使用されます。

原爆投下された広島や長崎では数十万人の市民が一瞬のうちに「阿鼻叫喚」の地獄に落とされました。
悪事を働いたわけでもなく、父母を殺害したのでもく、平穏に暮らしていた一般の市民が一瞬のうちに最悪の地獄に落とされたのです。
核兵器は人類にとって不要なものです
核保有国や核を開発している国々には核の悲劇を再び繰り返さないために、真剣に核廃絶に取り組んでほしいものです。

(参考)
なお、八大地獄とは次の地獄を言います
1.等活地獄・・・殺生
2.黒縄(こくじょう)地獄・・・殺生、盗み
3.衆合(しゅごう)地獄・・・殺生、盗み、邪淫。
4.叫喚地獄・・・殺生、盗み、邪淫、飲酒
5.大叫喚地獄・・・殺生、盗み、邪淫、飲酒、妄語(うそ)。
6.焦熱地獄 / 炎熱地獄・・・殺生、盗み、邪淫、飲酒、妄語、邪見(仏教の教えとは相容れない考えを説き、また実践する)。
7.大焦熱地獄 / 大炎熱地獄・・・殺生、盗み、邪淫、飲酒、妄語、邪見、犯持戒人(尼僧・童女などへの強姦)
8.阿鼻地獄 / 無間地獄・・・殺生、盗み、邪淫、飲酒、妄語、邪見、犯持戒人、父母・阿羅漢(聖者)殺害。


江戸の敵を長崎が討つ

2017-08-07 | 雑学

「江戸の敵を長崎討つ」と言う諺があります。
この諺は元々は「江戸の敵を長崎討つ」と言うのが本当なのですが、ご存知だったでしょうか?
そこで今日はこの諺の由来をご紹介します。

「江戸の敵を長崎で討つ」とは、意外な場所や筋違いなことなど、ひょんなことから、嘗て受けた恨みの仕返しをする例えとして使われます。
これは、江戸の地で恨みを受けた相手を、江戸から遠く離れた長崎の地で討ち果たすことから、このように言われていますが、実は、その由来はそうではありません。

「諺の由来」
江戸時代の文政年間(1818年から1831年)に、大阪の一田七正郎という職人が巨大な涅槃像を竹細工で作り、浅草で展示したところ、これが大好評を博しました。
しかし、江戸の職人には面白くありません。
江戸っ子気質で負けてはならじと、布袋(ほてい)の像を作って対抗したのですが、なにぶん、にわか作りの事ゆえ大阪陣に完敗を喫しました。
江戸の職人の面目は丸潰れです。

ところが、丁度同じころ、江戸で長崎から来た興行師がオランダ船の見世物を打ったのです。
あちこちが機械仕掛けで動くようになったからくりで、大砲の轟音のおまけまでついていました。
人気は非常に高く、先の大阪の竹細工に大きく水を開けたのでした。

これを喜んだのは江戸の職人たちでした。
長崎から来た興行師が江戸の職人の面目をはらしてくれたことから、「江戸の敵を長崎討った」と言われ始めたのです。

これがいつの間にか由来が忘れられて、「長崎」が「長崎」に変わっていき、現在のような使われ方になったのだそうです。


天下り

2017-08-06 | 時事

加計学園問題で国会が揺れていますが、元を糺せば、禁止されていた天下りを「文部科学省」が組織ぐるみで行っていたことから、文科省のNo.1であった前川喜平前事務次官がその責任をとらされる形で辞任に追い込まれたことが発端の、官邸と官僚の遺恨試合のようなものです。
もし、前川氏が辞任していなければ、今回の問題は決して表面化しなかったでしょう。
政権政党が政策を遂行するためには、日本も、アメリカのように政権政党から事務次官を任命し、政権が変われば事務次官も代わるような制度にして見てはどうでしょうか?

ところで、高級官僚がが民間や特殊法人に就職することを、何故、「天下り(あまくだり)」と言うのでしょうか?

「天下り」とは、元々神道の用語で、神が天界から地上に下ること、所謂「天孫降臨」を指して言い、漢字では「天降る」と表記します。
官僚が「天下る」と言うことは、まるで役所が天で、官僚が神様のような大げさな言葉となっているのです。
何故なのか?

調べてみると、昔からお役所は民間の上に立つという考えが支配的だったこと。
更に、明治時代以降に官庁から民間への強制的な命令をさすようになったことからで、「下り」とはそんな考えを象徴した表現のようです。

「天下りの弊害」
では、天下りが何故いけないのでしょうか?
・天下りの弊害は、天下りをした元官僚の多くが、団体のトップなどになって、高い給料をもらっていることで、こうした団体の多くは、役所からたくさん仕事をもらっているのです。

・更に、役所が、会社や団体に仕事を任せるときには、一般的には競争入札をして最も安い値段で引き受けるところに任せるのですが、天下り先の団体には、他との競争なしで仕事を任せることが多いのです。

・そして、こうしたお金は、もともと税金から出ており、これが高い給料の元になっているとなると、問題だということです。

実際、会計検査院が調べた結果、天下りしている元官僚がいる団体が国の役所からもらうお金は、いない団体と比べて25倍も多くなっているということです。
さらに、団体のトップになった元官僚は、何年か経つと退職しますが、同じ役所の次の人に譲り、ほかの団体にまた就職することがあります。
ここでも給料がもらえますし、何年か勤めるとやはり退職金がもらえるのです。

次に行く団体が無くならないよう、官僚は、わざわざ新しく仕事を作り出して、それを担当する団体をつくることもあると言われています。
こうして天下りの後、渡り鳥のように次々と団体を渡り歩くことを「渡り」と呼んでいます。
この渡りを繰り返して、何度も退職金をもらい、最後には何億円も受け取った人もいるということで、批判を受けているのです。

高級官僚は民間と比べても比較にならないような高報酬を受けている筈です。
天下りしなくても、生涯給与は民間大企業よりは多く、余裕を持って老後生活を送れる筈です。
税金の無駄遣いとなる「天下り」を無くし、官僚と官邸は互いに協力し合って政策を実行して欲しいものです。


五日一風、十日一雨

2017-08-05 | 時事

報道によれば、九州南部・奄美地方は、強い台風第5号の影響で大荒れとなっています。
台風は、強い勢力を維持したまま、明日6日夜には九州にかなり接近する見込みだそうです。
また、この台風は動きがゆっくりなため、影響が長引く恐れがあるようです。
九州北部豪雨で被害を受けた皆様はもとより、台風の進路にあたる地域の皆様、十分ご注意ください。

ところで、「五日一風(ごじついっぷう)、十日一雨(じゅうじついちう)」という諺がありますが、ご存知でしょうか?
「五日一風、十日一雨」とは、五日ごとに風が吹き、十日ごとに雨が降るの意から、気候が穏やかで農作物によいとされ、また、転じて、世の中が平穏無事であることを例えて使われます。

広辞苑にも、農作物に具合のいいように、五日に一度穏やかな風が吹き、十日に一度穏やかな雨が降ること。
そこから転じて、気候が順調で理想的なこと。また、世の中が穏やかによく治まっていることの例え。
と説明しています。
この諺の出典は、『論衡(ろんこう)』からで、この書物は、中国後漢時代の王充(おうじゅう:27年- 1世紀末頃)が著した全30巻85篇から成る思想書です。

さて、世の中が平穏無事であることを例えて使われる、「五日一風、十日一雨」ですが、我が国を取り巻く情勢は「十日一嵐(じゅうじついちらん)」と言うべきか? 
平穏が脅かされそうとしています。

ご存知の通り、日本の近隣では北朝鮮がICBMの打ち上げを続け、トランプ政権が真剣に対応策を練り始めたこと、中国が領海侵入を繰り返し覇権主義を推し進めていること、そして韓国では、米国の最新鋭地上配備型迎撃システム「高高度防衛ミサイル(THAAD:サード)」の運用が近く開始されることや慰安婦問題で再び騒ぎ立てていることなどが危惧されているところです。
一方、国内でも、加計学園問題や防衛省の日報問題等で大揺れに揺れて、安全保障面がなおざりにされているのではないかと懸念されます。

そうした中、一昨日には安倍第三次改造内閣がスタートしました。
大荒れに荒れた先の通常国会の後を受けて、この第三次改造内閣で大臣が交代したこれらの省庁では、問題が解決し、更に政治が安定して「五日一風、十日一雨」となるのでしょうか?
安倍総理、新閣僚の舵取りが注目されるところです。
間違っても「十日一嵐(じゅうじついちらん)」にならないようにして頂きたいものです。


もとの木阿弥

2017-08-04 | 雑学

「もとの木阿弥」という諺があります。
意味はよくご存知だと思いますが、その語源についてはどうでしょうか?
そこで調べてみました。

「もとの木阿弥」とは、折角一度よくなったものが、また元の悪い状態に戻ってしまうことの例えに使われる諺です。
語源については諸説あるようですが、その一つに、大和郡山城主の筒井順昭に纏わる説があります。

戦国時代、筒井順慶が未だ幼少だった頃、大和郡山の城主で父の筒井順昭が臨終に際し、自分の死を隠しておくように遺言をしました。
家臣たちは順昭とよく声の似た木阿弥という盲人をにわか仕立ての殿様にし、薄暗い寝所に寝かせて病臥に見せかけたのです。
そして三年後、順慶の成長を待って、盛大に順昭の葬儀が営まれました。
丁度そのころ、ひょっこり死んだはずの木阿弥が城下に姿を現したのです。
いぶかしがる知り合いに「俺は元の木阿弥だよ」と言ったことが語源とする説です。

他の説としては、ある人が妻を離縁して出家し、木食(もくじき:木の実や若芽だけを食べて修行すること)をして仏道に励み、京の人々から木食上人(もくじきしょうにん)または木阿弥などと呼ばれて敬われていました。
ところが歳をとるにつれて妻が恋しくなり、修行も止めて元の暮らしに戻ってしまったことから、世間の人はこの老人をあざけって「元の木阿弥」と言うようになったと言う説です。

他にもいろいろな説があるようですが、いずれにしても、これらの故事から転じて、一度は身に余る栄華を掴んだ者が、失敗して元の素寒貧(すかんぴん)にもどること。また、元どおりのつまらない状態に戻ることを例えて言われる諺です。

意味は知っていても、その謂れや由来までは知らない場合も多いと思います。
参考になれば幸甚です。


石山寺散策(4)

2017-08-03 | 趣味

石山寺散策の最終回は石山寺本殿をご紹介します。

天下の名勝真言宗石山寺は、山号を石光山、寺号を石山寺と言い、大津の南端、清流瀬田川の畔、伽藍山の麓に位置しています。
西国第十三番の札所であり、奈良時代からの最古の歴史と伝統を持つ霊山です。

「石山寺本殿」
石山寺は、縁起では天平19年(747年)聖武天皇の命により良弁(ろうべん)が開いたと言われています。
14年後の天平宝字5年(761年)に伽藍が整備されました。
平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の13番札所として庶民の信仰を集めました。



「源氏の間の紫式部」
案内によれば、
『今を去る約千年の昔、寛弘元年八月十五夜、紫式部この部屋に参籠し前方の金勝山よりさし昇る中秋の名月が下の湖面に映える美しい景色に打たれ構想の趣くままに筆をとられたのが有名な「源氏物語」であります。それからこの部屋を「紫式部源氏の間」と申すようになったのであります。』
と記されています。



「経蔵」
経蔵は高床の校倉造りで、嘗ては国宝の淳祐内供筆聖教(しゅんゆうないくひつしょうぎょう)を収蔵した建物です。
建物は頭貫木鼻(かしらぬきばな)の意匠や桁や垂木に反り増しがあることなどから桃山時代の16世紀後期頃の建立と考えられています。
なお、淳祐内供筆聖教とは、菅原道真の孫である石山寺第3代座主の淳祐(890年~953年)が書写した60巻1帖からなる聖教類です。



「多宝塔」
本堂を出て石段を数段登ると校倉造りの経蔵があり、そこを抜けてさらに石段を上がると多宝塔の前に出ます。
この多宝塔は建久5年(1194年)に源頼朝が寄進したと伝えられる日本最古の多宝塔で国宝に指定されています。
ご本尊の大日如来坐像は建久5年(1194年)塔と同時期に制作された、像高102㎝寄せ木作りだそうです。
均整のとれた優美な建築で、内部の柱や天井の廻りなどには仏像や草花などの絵が描かれているということです。



「光堂」
案内によれば、
『平成20年に、東レが会社創立80周年を記念して、創業の地のここに物故者慰霊塔を建立し、故人となられた諸先輩の尊いご努力に対し、衷心より感謝と敬意の念を顕す。併せて慰霊塔建立の場をご提供頂き、また、永代供養していただく大本山石山寺に感謝の念を込めて光堂を復興建立の上、これを寄進し、慰霊法要の場とする。』
と記されています。



「紫式部銅像」
光堂のすぐ傍に、紫式部の銅像が設置されています。
源氏物語の構想を練る紫式部の姿は各時代の絵師によって絵画化され、特に中世では、紫式部はそのまま観音菩薩であるとする「紫式部即観音」という信仰もあったほどです。



「くぐり岩」
この辺りの岩は全部大理石だそうです。
奇岩怪石の幽邃(ゆうすい)の境中天然自然に体内くぐり状態をなすこのくぐり岩の手前にある池は天平時代のものだそうです。




石山寺散策(3)

2017-08-02 | 趣味

今回の歴史探訪同好会の目的は石山寺へ行く事だけだったので、昼食後は現地で解散し、帰る人と境内を見学する人に分かれました。
私を含む5人は入場料を支払って境内を見学し、他の4人はそれぞれの用事で帰る人、草津まで行く人などに別れました。

「石山寺」
石山寺は、山号を石光山(しゃっこうざん)、寺号を石山寺と言い、大津の南端、清流瀬田川の畔、伽藍山の麓に位置している西国第十三番の札所であり、奈良時代からの最古の歴史と伝統を持つ霊山です。

・石山寺の案内図です。


「参道」
東大門からまっすぐに伸びる参道の両側には霧島つつじが植えられており、また春は桜、秋は紅葉で美しく彩られるということです。



「大黒天」
石山寺のHPによれば、大黒天は(950年前)に、ご本尊は3人の僧の夢のお告げにて湖水より出現しました。

・大黒天堂です。


「蓮如堂」
この建物は淀殿による慶長期の境内復興の際に三十八所権現社本殿の拝殿として建築された建物で重要文化財となっています。
明治以降、蓮如上人六歳の御影や遺品を祀る堂として使用されていることから蓮如堂と呼ばれています。



「毘沙門堂」
毘沙門堂は堂内に兜跋(とばつ)毘沙門天、吉祥天、禅膩師童子(ぜんにしどうじ)の三体を祀っています。
この建物は兜跋(とばつ)毘沙門天への信仰が厚かった和歌山の藤原正勝が施主となって建てたこと、大棟梁は大津の高橋六右衛門、治郎兵衛が、大工は大阪の大西清兵衛が担当し、大阪で木材の加工や彫刻を行い、現地で組み立てたことなど、造営方式が分かる点でも貴重なものだそうです。



「硅灰石」
硅灰石は、石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用のために変質したものですが、石山寺のように雄大な 硅灰石となっているのは大変珍しく、国の天然記念物に指定されています。
「石山」という名称はこの硅灰石に由来しています。