三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

松前藩がやっていたこと

2009年08月14日 09時09分43秒 | Weblog



わたしが小さいころは、なぜか、無人島のような場所で、
友人たちとそこをパラダイスにする開拓計画を行うことを夢想していた。
なぜそんな夢想をしていたのか、
自分でもよくわからなかったけれど、
北海道ということと、札幌という街にそういった気風があったのかも知れないと、
最近は思うようになってきました。
何もないところから、知恵と工夫で自分たちの暮らしを豊かにしていくことが
社会的な目指している方向だったと思える。
物心ついたときに住んでいた札幌の建売の中古商家住宅での起居のなかに
そういう先人たちの思いが宿っていたのかも知れない。

まぁ、いずれにしても、北海道の明治以降は
開拓の歴史だったわけで、それは日本民族にとって、
壮大な実験だったわけですね。
そのためにのちに総理大臣を務める薩摩藩保守本流の黒田清隆という政治家が
開拓施策の基本として、ケプロンという農務長官を
アメリカからスカウトしてきて、建白書をまとめさせた。
そういう方針の中で、さまざまな開拓努力が重ねられていったのですね。
そういう雰囲気の中でわたし自身も育ってきたのだろうと思うのです。
だから、そんな夢想にも、こうした背景を感じるようになってくるのですね。

で、一方で明治以降の開拓の中で、
まったくその痕跡を認められないのが、松前藩の存在。
きのうのブログでも、ずいぶん否定的に書いたのですが、
かれらは、この北海道のために、一体何をしていたのだろうか、
と、深く思わざるを得ないのです。
写真は、松前の街に建てられた実物大ジオラマともいえるもののなかの
「沖の口奉行所」での藩役人の様子。
ようするに北海道島の住人であるアイヌとの交易の窓口として、
その貿易産品に対して税を取り立てる活動痕跡なわけです。
本州地域から北方交易に来る船頭たちの積み荷をチェックし、
その交易に対して、藩は干渉するのが役割だった。
で、江戸期を通じてそれ以上の想像力を持たなかったのですね、300年間。
この写真のように偉そうにふんぞり返って商人から巻き上げ続けてきた。
ほかの藩が、必死になって殖産興業を計っていたというのに、
この藩だけは、そういう痕跡が認められない。
ちょっとまともな考え方があれば、函館平野を開拓し、
畑作農業でも興し、たとえば大豆など寒冷地に適した特産品を開拓でも
するべきではなかったのか。
逆になぜ、そういう発想が出てこなかったのか、
そっちのほうが、より研究に値するのではないかとも思えます。
どうも、わたしは松前氏については、
どうしても肯定的な見方が出来ない部分があって、
意地の悪い見方ばかりになってしまいます。
事実は、もう少しまともな存在だったのでしょうか。
まぁ、北海道の歴史において、まったく意味のない時間が
かれらによって固定化されていたと思う部分が大きいのです。





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