三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

八戸市・林の前遺跡

2009年08月31日 06時51分07秒 | Weblog



八戸を拠点にして、2日ほど
住宅取材をしていまして、その間、
以前から調査してみたいと考えていた
「林の前遺跡」を見に行ってみました。
この遺跡は、大変特異な遺跡で、歴史年代の戦争の様子が
生々しく発掘されたという、稀有なものです。
というのは、平安中期年代で、前九年合戦前後の遺跡であるということ。
発掘された人骨が後ろ手に縛られて、しかも
首と胴体が別々に何体も発見されているのですね。
時系列的には、糠部という王朝政府の地方支配単位が設定された前後です。
八戸周辺には、戸という地名が多いのですが、
王朝政府の基本的な地方支配単位は農業生産にその根拠を置くのに対して、
この地域は、馬産にその根拠を置いたとされています。
その単位として、戸、という単位が決められたという。
で、その馬産経済の中心的な支配者としての存在が、
この「林の前遺跡」の支配者に比定されているのです。
具体名で言えば「安倍富忠」という人物ではないかと思われている。
まぁ、この名前からして、王朝政府側の命名であって、
蝦夷のなかの有力者で、まったく違う通称名であったかも知れませんね。
八戸周辺は、その後の歴史年代でも飢饉に見舞われることの多い地域。
伝統的ヤマト民族が基本にした米作農業には必ずしも適さない地域です。
そういう地域特性の中で、馬産という
武家勃興期にあって全国的に市場規模が拡大してきた産業を
この地域で起こした勢力があって、
その勢力が、さまざまな「外交関係」を各地の勢力と展開していたのでしょう。
基本的な地政関係から、奥六郡周辺の国境貿易独占勢力、
当時で言えば「安倍氏」、その後の清原氏、藤原氏との関係が深かった。
しかし、気仙地域の「金氏」や、多賀城国府とも直接的な関係があったと思われる。
馬産経済というのはどのようなものであったのか、
イマイチ、詳らかにはなっていませんが、
貿易交換型の経済であったことは間違いないので
より有利な条件を求めて交渉し続けるというのが基本的なスタンスでしょう。

そのような背景を持った遺跡なのですが、
実際に行ってみると、平地から高台になった段丘状の地域。
八戸の海へもほど近く、台地上にあるので、防御的な城郭要素は満たされている。
写真の真ん中に走っている県道の工事で掘削してみたら
この遺跡が出てきたということなんですが、
周囲にはなんの案内もありませんでした(泣)。
やむなくクルマを降りて森の中に入ってみましたが、
クマかも知れない大型動物の糞が散見されるような地域で、
どういう痕跡も発見できない。
しかたなく「八戸市博物館」に行って情報を聴いてみました。
たぶん、館長とおぼしき方が説明していただけたのですが、
かろうじて、青森市の埋蔵文化財センターに資料はあるだろうという情報。

かなりマイナーな興味分野なので、
情報はなかなか得られません(泣)。
今度、青森市での用事ができたら、時間を見つけて探ってみたいと思います。
ただ、その後の歴史年代で南北朝のころに
この地域に南朝方勢力として侵略してきた「南部氏」のことも
おぼろげに、その出自への想像力が沸き上がってきました。
この南部氏は、武田の源氏を名乗る甲州の出身勢力なのですが、
甲州にはこの地域同様に馬産の伝統があり、
そういう経済勢力であったという推定が聞き取り情報として得られました。
いずれにせよ、馬産に関係するのがこの地域の
キーワードなのだと実感させられます。
そうやってみてみると、この写真の手前側一体は広大な「牧場」であったものか、
そんな想像が膨らんで参りました。 ふむふむ。




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