三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

奥六郡の興亡

2007年11月25日 08時18分17秒 | 歴史探訪

いまは日本史って、学校なんかではどのように教えているのか
とくに地域の特殊な歴史について、
どんな記述がされているのか、気になることがあります。
というのは、これまで北海道に住んでいて、
あまり、東北の歴史って、知る機会がなかったのです。
っていうか、東北の人でも地域の歴史に興味を持つ方は少ない。
そんななかで、北海道とは決定的に違うのが、
探そうとすれば、地域の歴史というのが発掘可能なかたちで残っているということ。
ほかの関東の歴史とも全然違うし、
そもそも日本全域の権力を中心にした歴史という観点ではなく、
地域ごとの発展経緯というような歴史記述って、
なかなか目にすることが少ない。
関東には関東の独自な歴史があると思うし、
その地域同士の関わり合いの歴史というのもある。
新潟から北陸にかけての地域なども、
やはり独自的歴史が流れていると感じられる。
そのそれぞれの地域で、たとえば地域の歴史って、
小学校低学年くらいで、どのように教えているのか、知りたいと思います。

そんな思いに駆られるようになったのは、
写真で見る東北中北部地域の歴史を徐々に理解するようになってから。
この地域が日本史に登場するようになるのは、
多賀城を中心とする王朝国家の奈良期くらいから。
鎮護国家の象徴として聖武天皇が
大仏造営を発願したあたりに、この地域で黄金が発見された。
このことは相当の衝撃的事態だったのだろうと思います。
大仏に金箔が貼られたり、都の建造物に金箔が使われたりした、
その現実的な基盤はこの地域の資源が日本史に影響したのだと思います。
前九年・後三年戦争とは、
そのような金の利権を狙った武家貴族・源一族の野望が発端。
その野望が現地の政治的経済的盟主であった氏族と
緊張関係を生み出し、同時にその結果に対して
王朝国家も政治的駆け引きに大いに関与したりして、
複雑な経緯をたどりながら、奥州藤原氏の覇権が成立して
一定期間の安定がもたらされる。
そして最終的に、関東武士団の非合法武力権力を政府機能にまで高めた
頼朝による、この利権と全域の掌握によって、
この東北地域の独自性は蹂躙されたのだろうと思います。

日本史の中で、頼朝の奥州制圧と、秀吉の九州制圧・関東制圧
というのが、いちばん武力鎮圧、という示威を感じさせることがら。
どうしても歴史は、権力の争奪というような政治的表現に
中心的興味がいく場合が多いと思いますが、
もうすこし、経済的な必然性にスポットを当てて見てみたいなと思う次第。
いま訪れても、この地図の中心の「奥六郡」地域は
たいへん気候も安定して、地味も豊かな地域柄。
そういうベースの上に、しかも金が算出した
そういう経済はどのようになっていたのか、
「金売り吉次」っていう存在とは、なんだったのか?
こういうあたりをもう少し掘り下げたような歴史研究、知りたいと思っております。
本日は再び、歴史大好き篇ということで。
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