三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【縄組み構法から「木組み」への木造技術過渡期】

2019年08月26日 07時36分01秒 | Weblog
どうもこのテーマ周辺のことが頭からなかなか離れません(笑)。
人文系の歴史とかが好きなタイプの人間が、
理系の建築技術について興味を持つと、
このあたりの自然の知恵から「建築工学」への過渡期に意識が集中するのか。
きっと納得するには、ある種の発想の「飛躍」が必要なのかも(笑)。

一昨日も触れていた「与那国の家」では、
柱梁の基本構造部分で縄で「縛り上げる」構法が使われていた。
たぶん100年前くらいまでは南方での「民家」として
初源的な「家の建て方」としてふつうに存在していたのでしょう。
それも、人口も少ない離島社会での伝統的家づくりとして
専門職が関与しない「家づくり」の「伝統工法」だったのだと思います。
写真は、下が先日もご紹介した「三内丸山と吉野ヶ里」の構造部分詳細。
で、この間には3000年ほどの時間差があり吉野ヶ里は3世紀推定。
この時間差のなかでどのように社会での変化があったのか、
そこが非常に興味深いなと思っています。
写真の上の方には、神戸の「竹中大工道具館」で見学したときに見た、
いわば「軸組」構法のはじまり、始原の説明図を組み合わせた次第。
で、説明図真ん中で石斧での「穴開け・仕口」加工が始まったという説明。
こういう建築工法「革命」があったけれど、
その時代以降の遺跡、北海道に遺された遺跡では近世のアイヌ期建築でも
こういった「軸組」構法採用は民家レベルでは寡聞にして知らないし、
沖縄の与那国島では、ごく100年前くらいまで採用されない住宅が残っていた、
ということがわかるのだと思うのです。
こういう建築の構法進化に伴って、社会的「分業」が明確化した、
というのがいちばんわかりやすい理解なのだろうと思う。

建築の「匠」世界というのはこの段階から、
いわばわかりやすくまっすぐに「発展して」いったのだろうと思う。
社会発展と人口増加に伴って、建築の需要はどんどん高まっていって、
いろいろな領域での技術発展も相互に影響し合い、
さらに中国から仏教建築が導入され、大阪四天王寺建立などで
聖徳太子が半島社会から「大工」職を招聘して技術加速がされたりした。
そこからはいわば歴史史実で後追いできるような世界がつながった。
この写真と説明図のところの「ミッシンクリンク」が
ムダに興味深い(笑)のであります。
こういうことに興味を持つ人間って、絶滅危惧種なのでしょうか(笑)?
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