三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

店舗の流行性

2009年08月21日 07時22分33秒 | Weblog



写真は宮城県の地方都市、亘理で見た居酒屋店舗。
店舗建築というのは、流行性を表現するものですが、
現代の「癒し」というものの所在をなんとなく教えてくれる。
居酒屋さんなんていうのは、
その典型のような存在でしょうね。
まぁ、あんまり外食とか、たくさん行くわけではないのですが、
そういえば、こういった昭和初期風の店構え、
よく見るような気がします。
わたし自身でも、古い雰囲気を残しているような店が好きですね。
札幌は古い木造建築に対して
たいへん厳しい地域で、その耐え難い寒さの記憶を「持っている世代」
にとっては、ちょっと懐かしむ、までの心理はなかなか生まれてこなかったけれど、
最近は、そういった店舗が徐々に出てくるようになってきている。
「こういうの、昔、あったよなぁ」
っていうような懐かしさが、ようやくその寒さの記憶を
追いやってくれるようになってきたのか。
それとも、寒さの記憶自体を持っていない世代がそろそろ現れてきたのか。
ひょっとすると、そういう若い年代がデザイン感覚だけで、
いいかも、というようになってきたものかも知れませんね。

こういう店舗設計の世界では、
この店の外壁に貼っている看板の類、
結構な需要なんだそうで、いろいろ手を尽くして集めている専門店もあるのだそうです。
また、古材の需要も高まっているので、
世界中に、安くて、それらしい雰囲気の出る材料を
探し歩くビジネスも存在しているのだとか。
こういうのって、何を表現しているのでしょうかね。
昔の時代が持っていた、癒しの雰囲気が
現代のぎすぎすした人間関係からみて、ノスタルジックに思える。
そんなことだとすれば、やはり寂しさがありますね。




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日ハム、インフルエンザ

2009年08月20日 06時14分52秒 | Weblog



好事魔多し、とはよく言ったものですね。
ほんとうに昔の人の知恵には驚くばかりなんですが、
今回のわが北海道日本ハムファイターズのインフルエンザ禍はまさに言葉通り。
空気感染するインフルエンザに、しかも激しいスポーツをやっている選手に
防御を完璧に対応するということは難しい。
プロ野球選手には、長距離移動が付きものであり、
飛行機や列車など、大量の人間が集まる場所への出入りも多い。
まぁ、北海道のチームなんで、ほかのチームよりも
移動の時間や距離が長いので、罹患する機会も多くはなるのでしょうが、
そういう点は、北海道に住む人間としては、辛い。

チームは今季、まさに堂々の成績で、首位を驀進中。
梨田監督も、各ポジションで活発な選手の競争を仕掛けて
選手たちの潜在能力をフルに引き出して戦ってきています。
そのうえ、ベテラン選手たちには戦力を考えながら適度に休養させながら、
慎重にペナントを戦ってきていました。
シーズン当初から、一喜一憂せず、長いシーズンを見越して
調子が出ない選手も我慢して活用したり、
いろいろやりくりしているな、と我慢の采配をしてきていました。
昨年の秋期練習で、各選手の課題に取り組ませて
全体としての打線の底上げを、たった1年でここまで果たせたというのは
長いプロ野球の歴史でも稀有なのではないでしょうか?
昨年まで12球団最低クラスの貧打にあえいでいたチームが、
いまや、打撃ベストテンに6人入っているチームになったのです。
ファン獲得の長期戦略でも、
まずは広いフランチャイズ球場の特性を考えて守備を第一に重視して
そのポイントでチーム力を底上げし、
幸いにもその過程で2度のリーグ優勝を果たし、
それだけではかげりが出る前に、ここまで劇的に打撃が活発化した。
長い目で見たチーム方針も良く理解できます。
梨田監督は、そういうチームの方針に満点に近い形で結果を出していると思います。

さて、そういうなかでの今回のインフルエンザ。
たぶん、もう少し発症者が出るかも知れませんね。
きょうの試合のメンバーがどうなっているか、
まさに監督の心中や、察してあまりあるところです。
しかし、こういう時期こそ、チーム一丸となって、
逆境を跳ね返して、最後まで諦めない姿をファンに見せて欲しいと思います。
確かに1軍半のようなメンバー構成になると思うので、
苦しい戦い方になるでしょうが、
そういうドラマも、プロ野球のひとつの魅力なのではないでしょうか。
インフルエンザには勝てないけれど、
そういう状態の中で全力を尽くす姿を、多くの注目が集まる試合で
ぜひ魅せて欲しいものだと思います。
がんばれ、北海道日本ハムファイターズ!

<写真は、苦難の門出みたいな意味(笑)>





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縄文期の土偶面

2009年08月19日 07時54分06秒 | Weblog



歴史民俗博物館の展示より。
縄文時代の土偶のお面の陳列です。
いろいろな表情のお面が作られて発掘され保存されています。
紐が通せるようになっているので、
お面として使用したであろうことは明白。
だからこそ、このように変わった表情をしているのでしょう。
弥生ののっぺりとした、つるんとした埴輪などの表情とは全然違う。
一番上のお面は、以前に一度触れたことがあります。
恵庭付近で発見されたモノのようですが、
表情がなんともいえず哀切で、
まるで、幼くして失った息子のことを想いながら作ったのではないかと
見るものに強く伝えてくるような表情をしていました。
そのほかにも、全国各地でこのように、まさに豊かな表情のお面が作られている。
やはり縄文の社会に、こういうお面を必要とするような習慣があったと推定できる。
地域ごとに表情が違うと言うことは、
作り方が手作りであり、しかも画一的な用途、
たとえばこのお面を使って、お面に人格を憑依させて踊るというような
そういう場面が想定できるけれど、
そういう憑依人格には一定性はなかったと思われます。
なにがしか、「神懸かり」の状態を演じる個体が存在し、
その人物を通して、神の意志を受け取ろうと考えた、
というのが一般的な理解かなぁ、と。

たぶん、かがり火のまわりをこうしたお面の人物が踊りまわり、
周囲を多くの共同体構成員が囲んでいたのではないか。
日常ならざる光景の中で、
いったいどのような呪術的な願いが託されたものか。
残された、このお面の表情の中から、そういう部分を想起するしかないでしょう。
それにしても、縄文期って、
まことに表情豊かで、「個人」を強く意識させるような表現力に満ちている。
たとえば今日に至るまで続く、「なまはげ」のような
そういう始原的なパワーを強く感じますね。
こういうものが、繰り返し、この日本社会の基底から
吹き上がってくるようなことが、たびたびあっただろうと
そんな想いが起こってきます。





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小堀遠州の作庭

2009年08月18日 06時16分13秒 | Weblog



写真は宮城県松島の円通院の庭の小屋。
いつ行ったのか、良く覚えていないのですが、
なにげに歩いてみて、瑞巌寺からほど近くにありました。
松島には、いろいろな機会に行くことがあるので、
瑞巌寺前庭の杉の森など、好きなのですが、
この庭を歩いたのは、ほんの偶然でした。
で、歩いてみてびっくりするほど繊細な造作ぶりに感嘆したのです。
で、あとから、この庭が小堀遠州の作であると聞いた次第。
なんでも江戸の伊達藩屋敷にあった庭を、
この松島に移築させたのだそうです。
「え、庭を移築?」と、驚きますが、
江戸初期の時代には、そういう感覚が存在したのでしょうね。
小堀遠州というひとは、
千利休・古田織部とならぶ、近世の芸術家といわれます。
西洋とは、すこし日本は芸術の価値観が違うと思いますが、
そういう世界観の中で、独特の芸術世界を生み出したこの3人は面白い存在。
小堀遠州というひとの来歴を見ていると、
武家としての栄達も遂げていますが、
現代の価値観から言えば、かれは建築家といったほうがいい。
いろいろな建築の奉行を務めていて、
それも幕府御用達、というような存在のように思います。
師匠である古田織部の非業の死を見ていたので、
政治的に、幕府との距離感を常に計算している感じがして、
そのあたり、清々しさには欠ける面もありますが、
しかし、利休からの権力と芸術の関係を見ると、やむを得ない面がある。

そういう遠州に、庭を依頼できたのですから、
伊達の世渡りのうまさ、というのも十分に伝わってきます(笑)。
庭は、まぁ、ことばでいくら説明してもしょうがない。
見て、感じて味わうものでしょうが、
写真はさりげなく建てられていた小屋がけであります。
石置きの屋根、円窓、といった構成でしたが、
庭と一体感があり、建物の意味を感覚させてくれるものでした。
わたしはとても感激しました。としか、言いようはありませんね(笑)。
やはりこのひと、面白そうだなぁと、小堀遠州のことを
もっと知りたくなったきっかけになった次第です。




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鉄刀木(タガヤサン)

2009年08月17日 07時15分30秒 | Weblog



最近の北海道の住宅では、ほとんど本格的な和室が見られない。
いわゆる床の間というものを造作する数自体が少ない。
なので、「床柱」という木にこだわりを持つという文化は
どんどん消滅に向かっていると言えるのでしょうか。
そのような「日本的」決まり事からは自由になって、
むしろインターナショナル的な方向に向かっているとも言える。

日本海岸の増毛にある商家の古民家、といっても
相当の成功者の家なんですが、
明治の初年に建てられた住宅に見る床柱です。
鉄刀木、と書いてタガヤサンと読むのだそうですが、
どうもよくわかりません。
黒檀、紫檀、と並んで唐木三大銘木と呼ばれるものだそうです。
原産地はタイ、ミャンマー、ベトナム、カンボジアなどということなので、
この時代に、それも北海道の北の地域で
こういった床柱を使用するのは、大変贅沢なことだったことでしょう。
北前船の便に乗せて運ばれてきたものでしょうが、
北海道では、まことに希少な材料使いだったことでしょう。
現在では、流通が良くなっているのでしょうから、
比較はできませんが、40~50万円程度の価格のようです。

木材の重くて硬いさまが、
まるで「鉄の刀のようだ」ということから「鉄刀木」の漢字が当てられるそうです。
腐りにくいことから、家が長く続くということに掛けて
床柱には、縁起がいいと言うことなのでしょう。
南洋材がこういう北海道の果てまで流通していたということが
旺盛な日本の建築需要を表現しているでしょうね。
それにしても、住宅建築の中のこういう一部分にこだわりを持つ文化性って、
日本建築のなかのどういう出自を背負っていることなのか、
いつも不思議な思いを感じます。
こういう部分に世界性を表現しようなどと考えるのは
「舶来」に対する強烈な日本人の憧れを表したものでしょう。
茶の湯でも、その茶碗に世界性を求めることが流行した
そういうものと通底するようなことなのでしょうか。

現代の住宅で、こういう日本文化的な部分が
もっと進化していくとしたら、
さて、どういうような領域にこだわりが向かうものか。
いろいろ発想は湧いてくるのですが、
北海道的なとらえ方の世界では、まことに興味をそそられる部分です。




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高校の同期会

2009年08月16日 14時19分30秒 | Weblog



いやぁ、筋肉痛であります、肩腰と腹部。
昨日は高校の同期会が開かれまして、って、もう30年近く続いている
「伝統」の同期会なんですね、これが。
地方の高校なので、東京や全国に散らばって生活している仲間が多い。
それで、年に一度夏休み、お盆に時期に合わせて開催し続けているもの。
わたしたちの年代では、親類との付き合いって言うのは
兄弟関係は別にして、なかなか少なくなってきている。
そういうなかでは、高校の同期の連中というのは、
気も置けないし、ほとんど親戚付き合いに近づいてきている(笑)。
現代のコミュニケーションは、いろいろ変化してきているけれど、
こういう関係というものが、
これまでのなにごとかに代わってくる部分というものもあるだろうと思う。

っていう次第ですが、
まぁ、朝早く6時半にはゴルフ場に集合してワンラウンドのコンペ。
わたしは、しばらく年に一度のゴルフという状態なので
スコアは言うに及ばず、第一がスウィングをするのも1年ぶり。
まぁ、なんとか、球には当たりますが、カップにはほど遠い(笑)。
まったくパターはノー勘であります。3パット4パットの大連発。
おまけに翌日はカラダのあちこちに筋肉痛。
関係ない筋肉大出動の結末ですね(笑)。
で、夜は6時から翌日まで、何杯飲んだかわからない延々の大宴会。
店から外に出ると、熱帯っぽいなま暖かさで、また酒が飲める。
転々とお店を移転。
バカバカしいゲーム大会で、お腹の皮がよじれきっていて
たわいのないジョークでも敏感に反応してしまう(笑)。

というようなことで、本日は静かな1日を過ごしております。
あすからは、ふたたび年後半戦の開始。
いろいろと懸案満載ですが、きょうは骨をたっぷり休めたいと思います。
写真は、道南鹿部町の「間欠泉」。
豊富な湯量の温泉地で、10分ごとくらいに盛大に吹き上げております。
まことに豪快で気持ちよい。
久しぶりに行ったら、なんと、無料の足湯に浸かりながら見物できる。
メーンの国道5号からは海沿い側にはずれるのですが、
なかなか楽しい温泉地であります。




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木挽の技術

2009年08月15日 05時23分50秒 | Weblog




歴史民俗博物館では、こんな展示もある。
いわゆる「木挽」っていうのは、室町のころからはじまったと言われているそうです。
それまでの日本では、木を水平方向に切る鋸はあったけれど、
垂直方向に切る鋸はなかったんだとか。
材木屋さんという存在は、大型木造建築の需要が高まった歴史年代に
この「木挽き」職人たちを集めて商売したのが始まりだそう。
神社仏閣などの大型公共工事目当てに仕事を受注したあと、
それでも、京都などで住み続けた職人たちに木を挽かせて
店の前で展示販売していたら、けっこう人気になって売れた。
いまでも、材木屋さんでは木を柱状にしたものを立てかけていますが、
ああいうスタイルが、室町期ころからはじまったと言われているのですね。

写真は、そういった木挽きの職人仕事をジオラマにしたもの。
こういう時期に、寸法という概念もできて
市中での流通の基盤になったことでしょうね。
製材と、木組み建築技術の社会的な分離は、
建築の産業化にとって、大変重要な過程だっただろうと思います。
それ以前の大型木造建築では、
材料自体をその場で切ったり、割ったり、かんな掛けしたりしていた。
それが、この写真のように木を挽く専門職が成立していったのですね。
もっと前の、竪穴住居の時代にはそもそも鉄もないわけで、
そうすると、石の道具などで切ったりしていたのでしょう。
アイヌの聖地、二風谷では、付近の河床から鋭利な木工細工に利用できる石が取れる、
ということで、そういう石を使って、丸太船を造ったりしています。
たぶん、そういった技術で木を扱っていたのだろうと思います。
いずれにせよ、鉄を加工した大鋸というのは、最先端技術製品だったようです。
もちろん、一般庶民にはそんな製材などを利用して家を建てるなどは
とんでもないことで、考えもつかなかった時代が長く続いただろうと思います。
一般庶民は、なんとか丸太を縄で組み上げて構造を造り、
それに茅などの線維製材を屋根・壁材として掛けていったのでしょう。
もちろん、自分たちの家は自給自足で作ったことでしょう。

こういう製材品は、一部の高級建築としての
国家施設、貴族などの建築施設などでだけ利用されたものなのでしょう。
そういったすばらしい建築が、ひとびとを感嘆させる装置として、
今日までありがたく拝観すべきものとして
日本的な権威の象徴でありつづけてきたのでしょう。

さて、お盆の休暇真っ盛りですが、
きのうは、かねてからの懸案業務で一日、執筆仕上げ作業。
ようやくメドが見えてきたところです。
ということで、本日は年に一度の高校の同期会。
朝からゴルフ、夜は宴会というスケジュール。
とはいっても、ゴルフは悲しいかな、ことし初めて。
さて、当たるものやら、どうなんだろうか、というところであります。





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松前藩がやっていたこと

2009年08月14日 09時09分43秒 | Weblog



わたしが小さいころは、なぜか、無人島のような場所で、
友人たちとそこをパラダイスにする開拓計画を行うことを夢想していた。
なぜそんな夢想をしていたのか、
自分でもよくわからなかったけれど、
北海道ということと、札幌という街にそういった気風があったのかも知れないと、
最近は思うようになってきました。
何もないところから、知恵と工夫で自分たちの暮らしを豊かにしていくことが
社会的な目指している方向だったと思える。
物心ついたときに住んでいた札幌の建売の中古商家住宅での起居のなかに
そういう先人たちの思いが宿っていたのかも知れない。

まぁ、いずれにしても、北海道の明治以降は
開拓の歴史だったわけで、それは日本民族にとって、
壮大な実験だったわけですね。
そのためにのちに総理大臣を務める薩摩藩保守本流の黒田清隆という政治家が
開拓施策の基本として、ケプロンという農務長官を
アメリカからスカウトしてきて、建白書をまとめさせた。
そういう方針の中で、さまざまな開拓努力が重ねられていったのですね。
そういう雰囲気の中でわたし自身も育ってきたのだろうと思うのです。
だから、そんな夢想にも、こうした背景を感じるようになってくるのですね。

で、一方で明治以降の開拓の中で、
まったくその痕跡を認められないのが、松前藩の存在。
きのうのブログでも、ずいぶん否定的に書いたのですが、
かれらは、この北海道のために、一体何をしていたのだろうか、
と、深く思わざるを得ないのです。
写真は、松前の街に建てられた実物大ジオラマともいえるもののなかの
「沖の口奉行所」での藩役人の様子。
ようするに北海道島の住人であるアイヌとの交易の窓口として、
その貿易産品に対して税を取り立てる活動痕跡なわけです。
本州地域から北方交易に来る船頭たちの積み荷をチェックし、
その交易に対して、藩は干渉するのが役割だった。
で、江戸期を通じてそれ以上の想像力を持たなかったのですね、300年間。
この写真のように偉そうにふんぞり返って商人から巻き上げ続けてきた。
ほかの藩が、必死になって殖産興業を計っていたというのに、
この藩だけは、そういう痕跡が認められない。
ちょっとまともな考え方があれば、函館平野を開拓し、
畑作農業でも興し、たとえば大豆など寒冷地に適した特産品を開拓でも
するべきではなかったのか。
逆になぜ、そういう発想が出てこなかったのか、
そっちのほうが、より研究に値するのではないかとも思えます。
どうも、わたしは松前氏については、
どうしても肯定的な見方が出来ない部分があって、
意地の悪い見方ばかりになってしまいます。
事実は、もう少しまともな存在だったのでしょうか。
まぁ、北海道の歴史において、まったく意味のない時間が
かれらによって固定化されていたと思う部分が大きいのです。





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松前と北海道史

2009年08月13日 05時19分38秒 | Weblog



松前は、札幌から遠い。
先日、用があって道南を訪れた折、
やや迂回して、一度は行ってみたかった松前を目指したのです。
カーナビでは、札幌から最短距離で350km以上ある。
中山峠を南下して、洞爺湖をまっすぐ目指して、
途中から豊浦付近で高速に乗って、
八雲で高速を降りたら、日本海側の熊石に抜けて、そこから一路
日本海岸道路を南下するのだけれど、
江差・上ノ国を通り過ぎたら、あとはほとんど集落はまばら。
うねりつつ続く海岸線の道路を走り続けるのは辛い。
そんな先に、ようやく松前はある。
一方で、函館までも約100kmの距離。
地理的な位置関係を見てみれば、確かに本州から海路を取って
もっとも距離は短かそうだけれど、
北海道全域、島としての北海道の全貌を把握する地理的な環境にはない。
しかも、猫の額のような海岸線の平地に張り付くように
城が建っているけれど、後背は険しい山岳地帯がそびえ立っている。
この地に、松前氏という藩権力が存在していたのだけれど、
いかにも、その想像力のなさにはあきれざるを得ない。
江戸期でも、幕府が北海道全域に対して測量したり、
アイヌの人々に対して、いたわりのある政策を直接支配地で試みたりしているけれど、
松前氏には金輪際、そういう発想はなかった。
ただひたすら、アイヌに対して恐怖し、交易でかれらを搾取することしか、
考えが浮かばなかった、無駄な時間を過ごし続けていた。
この地を初めて訪ね歩いてみて、そう思わざるを得なかった。
もう少し発展的な考えを持つ権力であれば、
当然その首府は、函館にしたであろうし、
農耕は米作には適さなかったまでも、畑作など、試みるに違いない。
そうではなく、幕末に至るまで、
ただひたすら、アイヌからの襲撃を恐怖し、
このひたすらに防御的な場所にしがみつづけてきた。
幕末期、榎本武揚軍が松前になんの価値も見いださず、
また、無視して函館に五稜郭を造営して本拠地として
「蝦夷共和国」を計画していたことから比較して、
300年間、なんの「施政方針」も持たなかったこの藩というのは
この島の歴史にとって、どういう価値と意味を持っていたのか、
どうにもやりきれないような思いを抱く。
松前氏は、その出自において、奥州藤原氏とのつながりも濃厚な安倍氏を出自に持つが、
途中、戦国期前後に家臣であった蠣崎氏が
乗っ取る形で、権力を簒奪している。
このとき、実質的に権力を握る過程では、どうもアイヌの有力者たちを
だまして、殺害するような手段で権力を握ったのではないかと推定されるのですね。
その後の、ひたすらにただただ、防御的なかれらの姿勢を見ると、
どうも、そのような想像をかき立てる気がします。

なんにせよ、この北海道の土地利用とか、開発というような部分では、
かれらはほとんどなんの役にも立っていない。
権力というものの意味を深く考えさせられる松前訪問でした。





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竪穴住居の軸組

2009年08月12日 07時20分10秒 | Weblog



先日訪問してきた、大船遺跡にあった竪穴住居。
津軽海峡をはさんで対岸地域の三内丸山と同質の文化といわれる。
いろいろな竪穴住居を見学しますが、
ここのように軸組のまま、というのも珍しい。
三内丸山では、クリが栽培され、どうも主食に近いような扱いだったと思われている。
で、軸組に使われた樹種もクリのようなんですね。
屋根は、後の世の「入母屋」のようである。
出入り口は右側にあるようで、屋根も架けられている。
このあたりは、想像で復元を行っているものか
まぁ、柱跡は特定可能だろうから、
それがわかれば、外観的な特徴点を類推することは可能と思う。
こういう軸組を見ていると、
やはり、木組みの美しさに心が反応してくる。
左側は入り口側から内部を見下ろしたところ。
掘り込みが結構深くて、1.5mくらいはあると思われました。
この深さは、実際の竪穴の地層変化で明確だろうから
間違いはないと思われる。
ここまで深く掘られていれば、この家はかなり暖かいと思う。
また、入母屋が事実この通りだとすれば
囲炉裏からの煙の道もかなり明確と思われ、
住宅の外形的な性能、住み心地はそう悪くはなかったように思われます。
大船は北海道でも比較的温暖な地域であり、
海の幸とともに、後背の山地からは山の幸も恵み豊か。
現代でも、隣町は温泉で有名な鹿部町であり、
別荘分譲地が盛んに開発されるような地域なので、
やっぱり、いろいろ想像してみても居住環境はそう悪くはない。

さて、本日からか、明日からか、
世間的にはお盆休みに入ってくると思います。
しかし、きのうはどっさりと休暇中の「宿題」作業が山盛りに。
まぁ、若くもないので、行楽という予定もないし、
のんびりと楽しく(笑)、片付けることにしたいと思います。
ふ~~~、やれやれ。





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