リコの文芸サロン

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3人の歌人の人生

2022-10-07 | 短歌
リコは短歌をしてますので3人の歌人がどんな日々の中で歌を詠まれたのか関心が有ります。
①正岡子規、②長塚節/上田三四二氏の3歌人について書いてみます。

★正岡子規(34歳の人生•1867年〜1902年)
「ノボさん」を読んで、感じたことです。

リコの好きな俳句、
ちぎらばや君は赤われ白椿 
          子規
子規の色恋いは想像出来ないので、水間寺でこの句碑を見た時は驚きました。

①子規は最初は本を書くことに力を入れてましたが、俳句、短歌に移りました。

②写生の俳句/短歌がよく分からなかったのが、中村さんの絵を新聞「日本」に掲載する縁で画家の中村不折との交流で「写生」とはを会得します。

③20代の頃から時々、喀血していて、結核の病気は始まっていました。
34歳で亡くなるまでの子規の日々が小説とはいえよく分かりました。

④亡くなる直前まで、物凄い食欲と食に関する関心は衰えることはありませんでした。

⑤母の八重と妹の律さんがいなければ子規の東京での生活は成り立たなかったようでます。

子規の死後、15年経った頃の母の八重と妹の律。
律は学校の先生に成りました。

⑥親族や知人、恩人に借金を度々する子規の金銭感覚が理解出来ません




いちはつの花咲きいでて
我目には今年ばかりの
春行かんとす  子規

短歌の全国大会で子規庵を訪ねたときに、いちはつが今も植えてありました。

あけび歌会・会員の鈴木葯房こと鈴木虎雄先生(1878年~1963年)は京都大学名誉教授で中国古典文学の功績で文化勲章を受章されました。
子規は享年34、この時、葯房24歳でした。子規の通夜と葬儀の様子をこんなに近くで立ち会った人の文章を読むのは初めてでした。
『葯房主人歌草』p216から抜粋します。

「子規君を夜台に送る。(明治35年9月22日 「日本」)
月の十九日子規君逝く。其の夕棺して之を守り、朝夕宗族朋友これに殮(れん)す。君が遺体は病臥のままに随ひ蓋ふに白布を以てす。収むる所のものは暫く流俗に従ひ亦た君が志にかなふ。青葉あり紅艸あり、蕪あり、瓜あり、萄あり、橘あり、秋色斕然(らんぜん)、君その中に眠るに似たり。朋友の親しきもの十数室を隔てて枕頭に環座し、律の僧一来て経を読む。翌二十一日、親族朋友来り会す。午前九時霊柩門を出づ。白灯四、野花二、銘旌なく、楽音なし。僧は導たり。木主は君が従弟之を奉ず。棺の左右は君の友人侍し、墓標次ぐ。其の後は葬に会するもの、其の次は君が令妹親戚、又た其の次は葬に会するもの。歩して田端大竜院に到り、経を捧げ香を抹し、遂に君を黄泉夜台の下に送らむとす。」
注:銘旌(めいせい)・・旗じるし、木主(もくしゅ)・・位牌





コメント (1)
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