Hr君、Hg君夫妻のいつものメンバーで、京都の葵祭を観に行った。葵祭は5月の15日に催され、8月の祇園祭、10月の時代祭りとともに京都三大祭とされている。
葵祭は上賀茂、下鴨神社の例祭で、京都御所を出発して下鴨神社到着し、社頭の儀をおえてから上賀茂神社に向かうというイベントである、五穀豊穰を祈って6世紀中頃から始まったと言われる、平安王朝時代の貴族の華やかな風俗の行列である。応仁の乱で中断したが元禄7年に再興され、明治維新で廃れ、明治17年に復活されて現在に至っていると言う。
下鴨神社前には行列の到着時刻に遅れて着いたが、下鴨神社のそばを流れる加茂川にかかる橋の上は人でいっぱいだった。あまり広くない行列の通り道の両側には三重四重に人が詰め掛けていて、背が高くない私にはとても見物できるものではなかった。そうこうしているうちに行列がやって来たが、行列の上のほうのごく一部が見えるだけだった。
この行列は京都御所を出発するが、平安貴族の姿そのままの総勢500余名が馬36頭、牛4頭、牛車2台、輿1台を連ねて下鴨神社に向かう。
警護の武士。検非違使と衛士があるようだが、上半身が少し見える程度で見分けがつかなかった。
風流傘。傘の上に色とりどりの造花が飾られているが、下のほうが見えればもっと華やかだったのではないだろうか。
馬に乗った女人達。騎女(うまのりのおんな)と言う。当時の女性もこのような装束で馬に跨ったのか。
御所車。これは牛車(ぎっしゃ)で、牛が引いているのだが、牛の姿は見えなかった。
インタネットより
最後には祭の主役の十二単(ひとえ)姿の斎王代を乗せた腰輿(およよ)が続いているはずだが見過ごしたようだった。斎王は賀茂神社に仕えるために皇室から差し出される内親王または女王のことだが、今では一般の今日と市民の若い女性から選ばれるので斎王代と言う。
やがてパトカーが来て行列が終わったことが分かり観衆は解散していった。行列よりも群集を見に来たようであった。
下鴨神社。ここで社頭の儀が行われた後いったん休憩し、再び上賀茂神社に向かって出発する。
せっかく来てみたが消化不良に終わった。帰ってインタネットで見ると、なるほど華麗な行列のようで、来年はもう一度行ってゆっくり観賞したいと思っている。
葵祭は上賀茂、下鴨神社の例祭で、京都御所を出発して下鴨神社到着し、社頭の儀をおえてから上賀茂神社に向かうというイベントである、五穀豊穰を祈って6世紀中頃から始まったと言われる、平安王朝時代の貴族の華やかな風俗の行列である。応仁の乱で中断したが元禄7年に再興され、明治維新で廃れ、明治17年に復活されて現在に至っていると言う。
下鴨神社前には行列の到着時刻に遅れて着いたが、下鴨神社のそばを流れる加茂川にかかる橋の上は人でいっぱいだった。あまり広くない行列の通り道の両側には三重四重に人が詰め掛けていて、背が高くない私にはとても見物できるものではなかった。そうこうしているうちに行列がやって来たが、行列の上のほうのごく一部が見えるだけだった。
この行列は京都御所を出発するが、平安貴族の姿そのままの総勢500余名が馬36頭、牛4頭、牛車2台、輿1台を連ねて下鴨神社に向かう。
警護の武士。検非違使と衛士があるようだが、上半身が少し見える程度で見分けがつかなかった。
風流傘。傘の上に色とりどりの造花が飾られているが、下のほうが見えればもっと華やかだったのではないだろうか。
馬に乗った女人達。騎女(うまのりのおんな)と言う。当時の女性もこのような装束で馬に跨ったのか。
御所車。これは牛車(ぎっしゃ)で、牛が引いているのだが、牛の姿は見えなかった。
インタネットより
最後には祭の主役の十二単(ひとえ)姿の斎王代を乗せた腰輿(およよ)が続いているはずだが見過ごしたようだった。斎王は賀茂神社に仕えるために皇室から差し出される内親王または女王のことだが、今では一般の今日と市民の若い女性から選ばれるので斎王代と言う。
やがてパトカーが来て行列が終わったことが分かり観衆は解散していった。行列よりも群集を見に来たようであった。
下鴨神社。ここで社頭の儀が行われた後いったん休憩し、再び上賀茂神社に向かって出発する。
せっかく来てみたが消化不良に終わった。帰ってインタネットで見ると、なるほど華麗な行列のようで、来年はもう一度行ってゆっくり観賞したいと思っている。