中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

怒りを忘れずに

2010-06-03 09:28:11 | 身辺雑記
 年をとると気が短くなり怒りっぽくなるとよく言われる。年寄りが家庭内ならともかく、公衆の面前で腹を立てて怒鳴ったりしているのを見聞きすることがあるが、そのような老人の姿は醜いものだ。私もいい加減年をとったので、自分はどうかなと考えることがある。

 若い頃の私は、どちらかと言うと短気な方だった。ちょっとしたことに腹をたてて怒鳴ったりすることはあまりなかったが、それでも甘えがあったのだろう、妻には何でもないことで当たったことはよくあった。妻はおっとりした性格だったから言い返したりはしなかったが、それでも時折「お父さんはお坊ちゃんなんだから」と言ったりした。また目上の人に腹立ち紛れに失礼な言動をしたこともある。今思い出すとまことに汗顔の至りだ。関西地方で言う「イラチ」で、すぐにいらいらする傾向はあった。買い物などで行列をして待つことは今でも苦手だ。しかし、私自身年をとったからと言って特に気が短くなったとは思えない。むしろ最近は青壮年期よりもゆったり構えるようになったと思っている。

 感情的に腹をたてることは感心したことではないが、「憤り」、「怒り」を持つこと、忘れないことは大切なのではないかと常々思っている。最近、新聞の投書欄で「怒り忘れぬ生き方、貫きたい」という80歳の男性の投書を読んだ。

 最初にまず作家の落合恵子さんが、あるトーク番組で司会者に「あなたのこのすばらしい生き方のエネルギーは何ですか」と問われ「憤ることです」と答えたことを紹介し、さまざまな不正不義、差別と偏見、とくに弱者への愛のなさ、こうした社会のゆがみに対して心底憤る、怒るという落合さんの生き方に「私は快哉を叫んだと」と書いている。そして「私は社会をまともなものにするのは正しい意味での憤り、怒りであると思っている。怒るということは、その対象物と真向かいになることである」と続けている。

 この男性の投書は「老骨ながらこれからも怒りを忘れない生き方を続けたい。単なる好好爺でありたくない。私から怒りが消えた時は人格的死の時である」と結ばれているが、まったく同感だ。このような老人の生き方はともすると「いい年をしてそんなにカッカしないで」、「肩の力を抜いて」、「そんなに怒っても世の中変わらないよ」などともっともらしく言われることもあるだろう。近頃は「物分りのよい」人が増えてはいないか。特にまだ20代と思われるのに、何か世の中、社会とは所詮こんなものだと分かったような物言い、姿勢があるが、若いのにこんな考えでは年をとったらどうなるのだろうと寂しくなることがある。若者こそが世の中の不正義、矛盾に怒りを持つべきではないだろうか。

 狷介な老人にはなりたくないが、あまり物分りがよいのも考え物だ。これからもせいぜい社会の矛盾や不正義からは目をそらすことなく憤っていこうと思う。怒りと好奇心を失わないこと、これが心の若さを保つのに必要なことだろうと思っている。