中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

民主主義

2007-04-19 07:55:59 | 身辺雑記
 長崎市長が銃撃されて死亡した。犯人は暴力団関係者で、詳細は分らないが公共事業や事故処理にかかわる恨みとからしく、現在の段階では政治的な背景はないようだ。

 それにしても、銃に限らず暴力で事を解決しようと言うのは卑劣な行為で、許されるものではない。最近の私達の社会には、このような暴力で人の言動を封じ込めようとする行為を生み出すような風潮が醸成されているような気がする。特にこれまでにもあったが、政治的な立場の違いや、個人の信条の問題に対して威圧を与えることや、それを容認するようなことは、民主主義社会の根幹に触れる問題だから、絶対にあってはならないと思う。その点では今後のことについて考えると、私はいささか懸念を持ってしまう。

 暴力ではないが、近頃の国政の状況を見ていると、何でも数の力で押し切っているようで、不安を覚える。政治にかかわる者の中にも単純に「多数決が民主主義の原理」と思い込んでいる向きがあるように思う。言うまでもなく民主主義は「1人の人間が99人の人間を支配したり、逆に99人の人間が1人の者を支配すること」とは相容れないものだ。たとえ今は少数であっても、正しいと信じる自分の考えが、いつかは多数になることに希望が持てるというのが民主主義社会と言うものだろう。議案を審議している最中にみっともなく居眠りしていたり、品性の乏しさを思わせるような野次を飛ばしたり、時には議場を抜け出したりしていながら、裁決のときだけ挙手する、こんな姿を見聞きすると、自分達の背後には思想信条こそさまざまだが、多くの国民がいることを少しでも理解しているのだろうかと思う。多数者の中に安住して精神の退廃を招くようなら、政治に携わることは願い下げにしてほしい。


                         
 


差別する言葉(3)

2007-04-18 09:04:00 | 身辺雑記
 言葉を適切に使うことは難しいことではあるが、そこに差別の有無が問われるとなおさらだ。かつてある女性市会議員と仕事のことで話していたとき、途中で私が「それはちょっと片手落ちですね」と言うと、「その言葉は差別語よ」と指摘された。身体障害者に対する差別だと言うことだ。しかし私の人権感覚が希薄だと言われればそれまでだが、どうも納得できなかったし、今でもそうだ。「手落ち」と言うのは「手続き、手段に欠点・不便のあること。おちど。手抜かり」(広辞苑)と言うことで、ごく普通に使われるが、これも差別語なのだろうか。「手」と言う語そのものには実際の手を指す以外に実にさまざまな意味がある。「てだて、手段、方法」の意味もその1つだ。「片手落ち」も「配慮が一方にだけにかたよること」だから、この言葉自体に本来差別的な意味はない。それを人体の手に限定し、その1つがないことと捉えて障害者に対する差別語とするのは疑問に思う。「片手落ち」が差別語と言うのなら「手落ち」も差別語と言うことになる。言葉には歴史的、文化的な背景があり、中には差別的な背景持つものがあることは事実だ。だからと言ってすべてをあまりにも今風に解釈し死語としていくのは、言葉の貧困さを招くことにならないか。

 差別あるいは差別感情が残る限り、差別語はなくならないし、新しく作られることもある。新しく作られなくても、既にある言葉が差別意識を持って使われることもあるだろう。以前朝の通勤電車の中で、前に立っていた2人の女子高校生が、テレビドラマの話をしていた。聞くとはなしに耳に入ってきたのは「ガイシャ」と言う言葉だった。それで興味を持って聞いていると、どうやらその当時ちょっとした話題になった、知的障害を持つ若い女性を描いたドラマのことのようだった。それで判ったのは彼女達が言う「ガイシャ」は「障害者」のことだった。そのようにごく普通の会話の中で使われ、それで通じ合っているのは、このような言葉が少なくとも高校生くらいの者の間では普通になっているからだろう、新しい差別語ではないかと思ったのだった。







差別する言葉(2)

2007-04-17 08:33:03 | 身辺雑記
  「らい(癩)病」あるいは「らい」は今では差別語として使われなくなり、病原菌の発見者の名をとって「ハンセン病」と言う。「らい」と言う言葉自体は本来差別語ではなく、今でも病原菌を「らい菌」と言う。しかし、周知のようにハンセン病の患者の歴史は悲惨なもので、単なる緩やかな感染力の伝染病で、治療可能で完治可能な疾病であるのに、強制的に生涯完全隔離され、時には遺伝疾患であるかのように、あるいは本人の業(ごう)であるかのような非人間的な扱いを患者達は受けた。そのような歴史がようやく幕を閉じたのは、1931(昭和6年)に制定された「癩予防法」が廃止された1996(平成8)年のことである。その暗い歴史にまとわりついてきた「らい病」と言う語が死語とされたのは当然のことだろう。

 しかし一度だけ、このことに関して違和感を持ったことがあった。私はエリス・ピーターズと言う英国の女流作家の「修道士カドフェル」と言う歴史推理小説が好きだった。中世英国のシュルーズベリの僧院の修道士カドフェルが難事件を解決していく連作で興味深かった。その中の1つに、土地のある貴族が十字軍の戦いに出て囚われの身となり、脱出して帰国するが、重い病に罹って姿かたちが変わってしまい、人目を避けて故郷に帰ってくるという話があった。その貴族の病を訳文では「ハンセン病」としていて、それが地の文だけでなく会話の中にも出てくるので興ざめした。おそらく「らい病」または「レプラ」と言う語を避けたのだろうが、中世英国の話の中に、それも会話の中に現代的な病名を使うのは、やはり行き過ぎだ。せめて「重い皮膚病」くらいにできなかったのかと思った。過ぎたるは及ばざるが如しではないだろうか。



差別する言葉

2007-04-16 10:20:04 | 身辺雑記
 差別語と言われるものは、本来その言葉そのものに差別的な意味がない場合でも、その言葉を使うことによって、対象者を蔑視し忌避して、その人権を無視し差別することに問題がある。ひところ差別用語に対する批判が強くなり、使うこと自体が差別意識を持っているとして指弾の対象になったこともあった。最近では落ち着いてきているようだが、マスコミでは今なお自己規制が強いと聞く。時代劇のアニメなどで、時々一瞬言葉が消えることがあるが、おそらく差別語と判断して消したのだろう。

 既に紹介した日本魚類学界が魚の名称を改めたことについては、一部では過剰反応、過剰自己規制と言う声もあるようだし、インタネットなどを見ると、いささか揶揄的な意見もある。魚類に限らず他の動植物についても、これからは同様の動きになっていくのが趨勢なのかも知れない。インタネットでも挙げられていたが、コビトカバやバカガイ、アホウドリなども対称になるのかも知れない。探せば幾らでも出てくるだろう。

 私は「バカ」が差別語なのかどうかについては疑問を持つ。この言葉を知的障害がある人に対して使うことは論外で、それこそ差別感丸出しと言えるが、それ以外については、使い方によってさまざまなニュアンスがあるので一概に差別語とは言えない。単に「愚かしい」ことを意味することもあり、例えば親や教師がつまらないことをしでかした子どもに「本当にバカだなあ」と言った時には、子どもに対するある種の共感も含んでいると考えられないこともない。しかし「バカヤロウ」となると相手を軽蔑し、見下した強圧的な感情の表れだろう。中国に行った時、退屈しのぎにテレビを点けてみるが、今でも抗日戦争をテーマにしたドラマをやっていて、そこに出てくる日本軍人とりわけ将校が「バカヤロウ」と中国人を罵る場面をよく見る。かつての中国人がまず覚えた日本語は「バカヤロウ」だったと聞いたことがある。とは言っても「バカヤロウ」が差別語と言えるのか。いっときはバカを使うことには非難もあったが、「バカの壁」という本がベストセラーになってからは、あまり抵抗なく使われるようになっているのではないか。

 関西人がよく使う「アホ」あるいは「アホウ」も同じで差別語ではないだろう。「アホかいな」は軽いからかいの言い方、話の合いの手のようなものだし、「アホやなあ」と言われても腹を立ててむきになることはあまりないだろう。しかし、「アホか」とか「どアホ」とか言うのは軽蔑や罵りで、これは言われた方は感情を害する。よく言われるように、関東は「バカ」で、関西は「アホ」だから、東京人は「アホ」と言われると腹が立ち、大阪人は「バカ」と言われると腹が立つのだそうだ。


                             
                       


差別的な名称

2007-04-14 10:05:48 | 身辺雑記
 今年の初めに、次男からメールがあった。内容は「魚の名前で差別的な意味のものは名前を変えるという記事をみました。メクラウナギなどは分かるとして、イザリウオのイザリはたしか「漁」の意味のはず。なぜ「差別的」のでしょう?」と言うものだった。

 イザリウオは体長10センチほどのアンコウの仲間の海産魚で、胸鰭と腹鰭が足状になっていて海底を這うようにして移動する。広辞苑には「いざる【躄る。膝行る】 ①すわったままで進む。膝や尻を地につけたままで進む。膝行する。(以下略)」とあり、この魚はこのような移動の仕方をすることから命名された。「いざり」は「いざる」の名詞形である。


 「川崎悟司イラスト集(http://kawa3104.at.infoseek.co.jp/izariuo.html)」より。 
  
 現在はカエルアンコウと改名されている。

 息子が「漁る(イサル。古語はイザル)」が由来と思っていたのは、この魚が頭部にエスカと言う擬餌のついた突起を持っていて、これで小魚を誘引して食べる(漁る)ことから命名されたという説明を聞いたのかも知れない。

 ところで「いざり」は、これも広辞苑によると「いざること。尻を地につけたまま進むこと。また、いざる人」とあり、この最後の「いざる人」の意味で、脚を失ったか不自由な人に対する呼称として使われ、そこにそのような人に対する蔑視感、差別感が含まれていることから今では使わないようになった。息子にイザリウオの名の本来の意味を教えたが、「いざり」は知らなかった。もう死語になりかけているのだろうか。


 その後、インタネットで「魚類学会:差別的な魚の名を改めます。32種類」と言う記事があったので息子に送ってやった。この記事にはいくつかの例が挙げられていたが、その中になぜ差別的な名称なのか今もって私には判らないものがある。今回セダカカワハギと改名されたセッパリハギと言う魚である。これまで聞いたこともなく、写真でも見たことがないので調べてみたら、体長2センチほどの小さい魚でカワハギの仲間である。他にも「セッパリ」とつくものが何種類かあるが、すべて改名されている。

 

 この図のように背が高く張り出していることからの命名だろうが、どうやら「せっぱり」が差別的な言葉と言うことのようだ。この「せっぱり」は広辞苑にも載っていない。インタネットでも調べてみたが、カラフトマスの成熟した雄の背中が著しく盛り上がっていることから「せっぱり(背張り)ます」と呼ばれること、この鱒で作った押し寿司「せっぱり寿司」が北海道の新千歳空港で空弁(こんな言葉は初めて聞いた。ソラベンかクウベンか)として売られていることくらいしか分らなかった。推察するに、この「せっぱり」は差別的な用語とされている「せむし」を意味すると考えられたのだろう。しかし、方言としても「せっぱり」がそのような身体障害のある人達に対する蔑称として使われていたのだろうか、いろいろ調べてみたが、今のところ私には判らない。あるいは少々深読みの嫌いがあるのではないかとも思っている。


食事の方式

2007-04-13 09:09:55 | 中国のこと
 ちょっと硬い話題を。

 中国社会科学院考古研究所の研究員の王仁湘(Wang Renxiang)の「中国飲食文化」(青土社)は古代以来の食に関する膨大な文献を調べてまとめた、日本語版で740ページほどの大著だが、内容は食の歳時、料理人、茶道、酒、薬膳、食事の方式、飲食芸術、食礼など多岐にわたっていて興味を惹かれる。その中の食事の方式についての章で「分餐と会食」について述べられている。

 それによると、中国では集まってする食事の形式は、みんなで食卓を囲む「会食」の形が多く、「賑やかになるし、盛大でもあり、たがいに分け隔てなく親密になる。この会食方式は中国の飲食文化の重要な伝統である」と言っている。中国料理の華やかさ、種類の多さは有名だが、調理の方法もいろいろあり、それはかなりこの会食方式に関係あるそうだ。実際これまで中国で食事した時には、寧夏回族自治区の区都の銀川で招待された宴席以外はレストランでも家庭でも、町でも田舎でも、すべてこの会食方式だった。家庭でも何皿かの料理をテーブルの中央に並べて家族がそれぞれ取って食べるからやはり会食だろう。



 この方式は、各人が個別に一人前づつ用意された料理を食べる方式が普通の私達日本人には少々抵抗があるようだ。もっとも日本でも鍋物やすき焼き、焼肉などの場合は会食の形式だが、確かに「たがいに分け隔てなく親密になる」効果はある。中国ではそれが常態化しているわけだろう。中国でも古くは個別に料理が供される分餐方式であったのが、それが時代とともに次第に会食方式に変わってきたようだ。

 しかし、王仁湘は「今日の中国人はもはやこの伝統を・・・・かならず取り除くことを断固として決意している」と言う。実際、政府が主催する国宴は早くから分餐方式になっているようだ。そして、「会食方式の改変はすでに不可逆的な趨勢にある」とも言う。この本が書かれたのは1993年だから既に10年以上たっているのだが、彼が言う趨勢にあるのかどうか、確かに大きな宴席ではそうなのだろうが、どこまで一般化しているのか経験の乏しい私にはよく分からない。

 彼も指摘していることだが、中国人でも会食方式を批判するのは、この方式によって唾液が混じり合うことにあるようだ。特に宴席などでは主人が客に自分の箸で料理を取り分けるのが礼儀になっているようだから、神経質になればなおさらだろう。SARSが流行した時には会食方式でも取り箸をつけることが薦められたようだし、私も取り箸をつけて出された料理は経験したことがある。SARSでなくても肝炎の感染のことも指摘されているようで、もっともなことではある。

 しかし私は中国では会食方式に慣れたせいか、料理を取り分けてもらうことにもあまり抵抗がない。西安の邵利明の家で夕食に招かれた時にはホスト役の父親が取り分けてくれた。上海の施路敏の東京の家で夕食を食べたことがあるが、彼女が自分の箸で蝦を取ってくれた時には、何か孫娘にサービスしてもらったように嬉しく思ったものだった。長い伝統的な食事方式は、庶民の間ではなかなか変わらないのではないだろうか。


雲南黄梅(うんなんおうばい)

2007-04-12 09:27:27 | 身辺雑記
 街に出る途中に、さまざまな花を作っている家がある。その家の奥さんが花好きらしく、毎年四季折々の花をたくさん咲かせて、道行く者の眼を楽しませてくれている。



 この家は斜面に建てられていて、敷地の一方がかなり高くなっている。ここに黄色の花をつけた植物が枝垂れ柳のように垂れ下がっていてなかなか美しい。先日通りすがりに、ちょうど道路に出ていた奥さんに、その花の名を尋ねたところ「雲南黄梅」と言うことだった。

  

  

 雲南黄梅は黄梅の仲間で、「雲南素馨」(うんなんそけい)とも言うようだ。モクセイ科に属し、ジャスミンの仲間である。黄梅は中国原産だから、この雲南黄梅もそうだろうが、雲南と冠しているのは雲南に由来するからか。

 黄梅は江戸時代の初期に渡来したもので、中国語辞典を見ると迎春花(yingchunhua)とある。旧正月の頃に開花することからの命名のようだ。花は雲南黄梅よりは小さいようだが、並べてみないと分らない。

 黄梅。京都円山公園で。




花海棠(はなかいどう)

2007-04-11 09:20:21 | 身辺雑記
 中国原産で江戸時代の初期に渡来したバラ科の植物で、リンゴの近縁。実の大きな実海棠に対して花海棠とされた。中国名も海棠(haitang)。





 「海棠睡り未だ足らず」という慣用句がある。唐の玄宗皇帝が愛妃である楊貴妃を評した言葉で、美人が酔って眠った後の、まだ眠り足りない、艶めかしく弱々しい美しさを言うとある。海棠の花がそのような姿を連想させたのだろう。中国では牡丹とともに最も愛好されるそうだ。豪奢な牡丹に比べると目立たない花なのだが、この故事のために人気があるのだろうか。
 

花柄が長く下向きに咲くのが「睡り未だ足らず」という風情なのだろう。











花蘇芳(はなずおう)

2007-04-10 08:41:57 | 身辺雑記
 中国原産で、江戸時代初めに渡来したマメ科植物。中国名は紫荊 (zijing)。紅紫色の小花を枝や幹に直接密生するので一風変わった印象を受ける。蘇芳は同じマメ科で、マレーシアやブラジルに産する染料植物。その赤い色素は天平時代には輸入されて朝廷の重要な色とされていたと言う。全身血だらけになった状態を「蘇芳を浴びたよう」と形容される。花蘇芳の名はその花が蘇芳色であることから来ている。

近所の家の庭になかなか見事な花蘇芳がある。






花はマメ科の特徴である蝶形花冠。花後にできる種子は豌豆のように莢に入っている(莢果)。




中国洛陽の白馬寺の境内の紫荊花。境内には多く植えられていた。


寝ぼけパソコン

2007-04-09 07:46:31 | 身辺雑記
 近頃の私のパソコンの状態には、イライラさせられる。

 まず、立ち上りが極めて良くない。点けると製造元のロゴ(私のは東芝のdynabook)が出てくるが、その後、黒い画面に変わり、何やら分けの分らない英文が出てきて、それ以上進まないことがある。それでいったん消してから再度点ける。しかしこれはあまり頻繁に起こらないから、それほどいらつくことはない。次は最終段階でインタネットに接続しないこともよく起こる。右隅のいろいろなマークの中の「ローカルエリア接続」を示すテレビのマークに赤い×が出ると「またか」と思って、最初からやり直す。時にはこれを3、4回繰り返すこともある。

 やっと接続できて、では・・・と画面のアイコンのうちの1つ(朝ならたいていは「電子メール」)をクリックするといっこうに反応しない。止まってしまったわけではないことは、パソコンの前縁にある4つの小さな青いランプのうちの右端のものが点滅しているので分る。辛抱して、新聞を読んだりして待っていると、思い出したようにポケッと画面が開く。それで操作を始めると、これまたなかなか反応しない。画面に出ている矢印のポインタが砂時計印に変わり、じっと固まってしまう。青いランプは息絶え絶えというようにのろのろと点滅しているから、まだ生きているのだろうとかなりの時間待っていると、やっと動き出すこともあるが、時にはにっちもさっちも行かなくなることがある。そんな時には「アホ!マヌケ!」などと罵りながら手動でスイッチを切り、最初からやり直す。この他にも操作の途中で動かなくなることはよくある。いくら罵ってみても、相手は反応するはずがなく、根負けしてしまう。そのくせ、いったん調子よく動き出すと、何事もなかったようにすらすらと滑らかに行く。とにかく寝起きの悪い代物だ。買ってからそれほど年数は経っていないから、もしかすると若年性の認知症なのかもしれない。

 いったい何が原因なのか。昨年秋にも調子が悪くなり、どうにもならなかったので修理に出しメモリを交換したが、それ以来それまでとは違った画面になったり、ある操作ができなくなったりしていたので、それが原因なのか。これも秋ごろに「ウイルスバスター」を入れたが、それが原因で重たくなっているのか。ハード面のことに限らずパソコンの仕組みについてはまったく無知な私には見当がつかない。この文章を作るまでにも四苦八苦した。

 この寝ぼけパソコンをいっそのこと買い換えようか、僅かばかりだが蓄えはあるから買えないこともない、しかし何とか動いているのだから部品交換でもいいが結構高くつくし、これまでのファイルなどの一部が消えてしまっては嫌だし、などとぐずぐず思案している。とりあえず、いつも世話になっている近所のパソコン教室に相談に行こう。