長崎市長が銃撃されて死亡した。犯人は暴力団関係者で、詳細は分らないが公共事業や事故処理にかかわる恨みとからしく、現在の段階では政治的な背景はないようだ。
それにしても、銃に限らず暴力で事を解決しようと言うのは卑劣な行為で、許されるものではない。最近の私達の社会には、このような暴力で人の言動を封じ込めようとする行為を生み出すような風潮が醸成されているような気がする。特にこれまでにもあったが、政治的な立場の違いや、個人の信条の問題に対して威圧を与えることや、それを容認するようなことは、民主主義社会の根幹に触れる問題だから、絶対にあってはならないと思う。その点では今後のことについて考えると、私はいささか懸念を持ってしまう。
暴力ではないが、近頃の国政の状況を見ていると、何でも数の力で押し切っているようで、不安を覚える。政治にかかわる者の中にも単純に「多数決が民主主義の原理」と思い込んでいる向きがあるように思う。言うまでもなく民主主義は「1人の人間が99人の人間を支配したり、逆に99人の人間が1人の者を支配すること」とは相容れないものだ。たとえ今は少数であっても、正しいと信じる自分の考えが、いつかは多数になることに希望が持てるというのが民主主義社会と言うものだろう。議案を審議している最中にみっともなく居眠りしていたり、品性の乏しさを思わせるような野次を飛ばしたり、時には議場を抜け出したりしていながら、裁決のときだけ挙手する、こんな姿を見聞きすると、自分達の背後には思想信条こそさまざまだが、多くの国民がいることを少しでも理解しているのだろうかと思う。多数者の中に安住して精神の退廃を招くようなら、政治に携わることは願い下げにしてほしい。
それにしても、銃に限らず暴力で事を解決しようと言うのは卑劣な行為で、許されるものではない。最近の私達の社会には、このような暴力で人の言動を封じ込めようとする行為を生み出すような風潮が醸成されているような気がする。特にこれまでにもあったが、政治的な立場の違いや、個人の信条の問題に対して威圧を与えることや、それを容認するようなことは、民主主義社会の根幹に触れる問題だから、絶対にあってはならないと思う。その点では今後のことについて考えると、私はいささか懸念を持ってしまう。
暴力ではないが、近頃の国政の状況を見ていると、何でも数の力で押し切っているようで、不安を覚える。政治にかかわる者の中にも単純に「多数決が民主主義の原理」と思い込んでいる向きがあるように思う。言うまでもなく民主主義は「1人の人間が99人の人間を支配したり、逆に99人の人間が1人の者を支配すること」とは相容れないものだ。たとえ今は少数であっても、正しいと信じる自分の考えが、いつかは多数になることに希望が持てるというのが民主主義社会と言うものだろう。議案を審議している最中にみっともなく居眠りしていたり、品性の乏しさを思わせるような野次を飛ばしたり、時には議場を抜け出したりしていながら、裁決のときだけ挙手する、こんな姿を見聞きすると、自分達の背後には思想信条こそさまざまだが、多くの国民がいることを少しでも理解しているのだろうかと思う。多数者の中に安住して精神の退廃を招くようなら、政治に携わることは願い下げにしてほしい。