JR函館駅のイカスホールで開催されている写真展「青函連絡船 海峡の記憶」を見てきた。
「語りつぐ青函連絡船の会」の活動10周年記念のイベントで、2月24日(水)~3月16日まで行われているようだ。
80年の歴史を刻んで1988年3月13日に終航となった青函連絡船。その直前、厳冬の津軽海峡をゆく船体と、最後の航海にたずさわる人々の姿をとらえた写真(カラー・約80点)が展示されていた。
青函連絡船については、地元函館人でなくとも、悲喜こもごもいろいろな思い出があるはずだ。
出港時の別れのテープ(昭和39年の死亡事故で廃止)と「蛍の光」のメロディにドラの音が醸し出す旅情に、どうしても別れの哀愁が濃く付きまとうが、進学や就職や旅への多くの希望も運んだはずだ。そして、函館山が見えると、「帰ってきた」という安堵感も懐かしい。
自分にとっての最初の青函連絡船への想いは、尻への直径3cmはあろうかと思うような太さのストレプトマイシン注射の強烈な痛みに遡る・・・初乗船を楽しみにしていた中学校の修学旅行だった。しかし、前日に高熱を出し、布団にしがみつきながら我慢して打った注射だったのに、朝になっても熱が下がらなかった。泣く泣く参加を取り止め、出港時刻の時計を布団の中から眺めて泣いた辛い思い出に始まる。
その次も、またまた「涙の連絡船」・・・当時「金の卵」ともてはやされて、中学卒業と同時に集団就職で旅立つ多くの友人の見送り・・・送る方も送られる方も涙・涙・涙・・何本もの五色の紙テープを両手の人差し指に通して「テープが切れると縁が切れる」と言われて、切らないように懸命に延ばしたものだ・・・。見えなくなるまで見送った船体から風になびく五色のテープの美しさが印象的だった。
そんなこんなで、初乗船は高校の修学旅行だった。その後、何度となく利用したが、船酔いしやすい質だったので、あまり良い思い出はない・・・もの凄い嵐で、出航か欠航か寸前まで揉めて出航したときは、4時間のうち青森に着くまでの3時間、トイレの中に新聞を敷いたまま閉じこもって吐き続けたイエロー船室の思い出が強烈だ。
楽しい思い出もある・・・当時、この連絡船の乗組員にスキー指導員仲間が多く、特別サービスでグリーン船室へ案内されたことも多かった。また、たまたま、家族で旅行したときに乗った船の船長がやはり親しかった指導員仲間だったこともあり、操舵室で子供たちに、ここに書くのははばかれるような楽しい体験をいろいろさせてもらったこともある。
その船長から、連絡船が廃止される2ヶ月前に、新築祝いにいただいたのが、上記の額である。これは、現在函館港に係留されている摩周丸の精巧な手書きの絵図面である。色付けは全て切り紙を貼っている。どなたか乗組員の作品らしい。作者のネームも入っている。
しかし、新築祝いとは言っていたが、別れの挨拶代わりの置きみやげでもあった・・・この数日後に、船長としての再就職先の三重県へと旅立って行った・・・。