妻が両足の小指にマメ(水ぶくれ)ができていたので、昨夜のうちに手当てをし、荷物を2kgほどこちらリュックへ移した。
美味しい朝食をいただき、宿の車で送ってもらって、7:20に中山道へ戻って、スタート。宿代は瓶ビール込みで19000円ちょっと。
関ヶ原合戦の古戦場巡りも興味がある。しかし、カイドブックによると、「広すぎて中山道歩きのついでにというわけにはいかない」と書かれていた。確かに、道中の途中にも各武将の陣地の跡の碑がたくさんあった。
宿場としての名残を残すのは、相川家の脇本陣跡くらいとのこと。
各武将の旅印が並んでいるところは、徳川家康に首実験された武将が眠る西首塚だった。
関ヶ原宿を抜けてしばらく行くと、壬申の乱の後、637年天武天皇が設置した古代三関のひとつ、「不破の関跡」。
さらに進み、山道に入る手前に、源義経の母・常盤御前の墓と芭蕉の句碑が2つ。
山道の今須峠を越えると、今須宿が見えてくる。
8:30、今須宿に到着。この宿場は、美濃路最後の宿場である。しかし、宿場時代の面影はあまりない。
東海道本線の下のトンネルの先に、禅宗の古刹・妙応寺。
美濃国(岐阜県)と近江国(滋賀県)の国境は、今も昔も細い溝。当時、この溝を挟んで2軒の旅籠があり、寝ながらにして他国の人と会話ができたことから「寝物語の里」と呼ばれた。
9:15、柏原宿へ入って行く。この宿場は、近江路最初の宿場で、1.4kmにもおよぶ大きな宿場である。入ってから抜けるまで35分も歩いた。街道すじには、古い家屋が残っており、それぞれに元の商売と店名を残しているが面白い。
重厚な大正5年建築の柏原宿歴史館。国の有形文化財。
やがて、狭い平地に、高速道路、旧中山道、国道21号線、東海道本線が平行して走っているところを抜けると、醒井宿が見えてくる。
10:30、醒井(さめがい)宿の江戸時代初期の問屋場跡が修復された資料館に到着。
この宿場は、「バイガモ揺れる湧水の町」と言われ、ハリウオが棲む非常にきれいな地蔵川が町中を流れている。
ちょっと街道を外れ、醒井水の里駅へ寄り、ここの名物の六方焼きときんつばを食べて一休み。
醒井宿を抜けた先の樋口集落にも水路が流れていた。国道から離れた静かな歩きが楽しめた。
11:55、番場宿に入って行く。この宿場は、随所に「○○の跡」の新しい標柱は多いが、宿場時代の面影を伝える建物はない。一本道の街並みは街道の町を連想させてくれる。
「瞼の母」の主人公・番場の忠太郎の故郷である碑が立っていた。また、この奥には、1333年、足利尊氏に追われ落ちてきた六波羅探題・北條仲時一行430名が自刃し、鮮血で辺りは血の川と化したと伝わる蓮華寺がある。
番場宿を抜けると、摺鉢峠へ上がって行く。振り返ると、三百名山巡りで妻も登った伊吹山。
摺鉢峠を越えた辺りで、琵琶湖がちらっと見えた。
摺鉢峠を下ると、彦根市へと入っていく。「おいでやす彦根へ」のモニュメントが迎えてくれる。
13:10、鳥居本宿へと入っていく。この宿場は、今でも古い格子の町屋が多く残り、宿場情緒溢れる町並みである。しかし、道が狭く交通量も多いので、ゆっくり散策できない。
江戸時代の大店舗の姿のまま、200年を経て、現在も営業している赤玉神社教丸本舗有川家。
鳥居本のもうひとつの名物の合羽屋。昔の看板だけでも5軒ほど目にした。
ずっと店も食堂もなく、仕方ないので、ここの鳥居本交流館で、手持ちのチョコとソーセージで昼食タイムとした。
15:00、今日のゴールの高宮宿へ。街道は広くなり、交通量も多くなり、これまでほとんどなかったコンビニやスーパーまで姿を現す。
この宿場は、中山道有数の大きな宿場で、古い町並みが続く。もともと多賀大社の門前町として栄えたところてある。また、「高宮上布」と呼ばれた麻織物の問屋として賑わったところでもある。
高宮神社向かいの「布惣」もその一つで、現在は改装されて宿駅「座・楽庵」になり、喫茶やギャラリーになっている。
ホテルが近くなってきたので、残りは明日に回して、高宮神社の中を抜けてホテルへ向かった。
10分で到着した、今夜の彦根アートホテル。朝食付きで、二人で8400円。
今日は、7つの宿場を通過したが、ひとつひとつの区間が短いので、歩いた時間まで短く感じた。また、足の痛みが少しは癒えて、荷物も歩くなった妻が快調に歩いたので、余裕のゴールだった。
また、この区間は、街道がしっかり残っていて、国道を何度も横切るが、国道歩きは少なかった。
夕食は、近くのレストランで、ハンバーグとチキンソテー。
行動時間、8時間。歩数計、43900歩数。
美味しい朝食をいただき、宿の車で送ってもらって、7:20に中山道へ戻って、スタート。宿代は瓶ビール込みで19000円ちょっと。
関ヶ原合戦の古戦場巡りも興味がある。しかし、カイドブックによると、「広すぎて中山道歩きのついでにというわけにはいかない」と書かれていた。確かに、道中の途中にも各武将の陣地の跡の碑がたくさんあった。
宿場としての名残を残すのは、相川家の脇本陣跡くらいとのこと。
各武将の旅印が並んでいるところは、徳川家康に首実験された武将が眠る西首塚だった。
関ヶ原宿を抜けてしばらく行くと、壬申の乱の後、637年天武天皇が設置した古代三関のひとつ、「不破の関跡」。
さらに進み、山道に入る手前に、源義経の母・常盤御前の墓と芭蕉の句碑が2つ。
山道の今須峠を越えると、今須宿が見えてくる。
8:30、今須宿に到着。この宿場は、美濃路最後の宿場である。しかし、宿場時代の面影はあまりない。
東海道本線の下のトンネルの先に、禅宗の古刹・妙応寺。
美濃国(岐阜県)と近江国(滋賀県)の国境は、今も昔も細い溝。当時、この溝を挟んで2軒の旅籠があり、寝ながらにして他国の人と会話ができたことから「寝物語の里」と呼ばれた。
9:15、柏原宿へ入って行く。この宿場は、近江路最初の宿場で、1.4kmにもおよぶ大きな宿場である。入ってから抜けるまで35分も歩いた。街道すじには、古い家屋が残っており、それぞれに元の商売と店名を残しているが面白い。
重厚な大正5年建築の柏原宿歴史館。国の有形文化財。
やがて、狭い平地に、高速道路、旧中山道、国道21号線、東海道本線が平行して走っているところを抜けると、醒井宿が見えてくる。
10:30、醒井(さめがい)宿の江戸時代初期の問屋場跡が修復された資料館に到着。
この宿場は、「バイガモ揺れる湧水の町」と言われ、ハリウオが棲む非常にきれいな地蔵川が町中を流れている。
ちょっと街道を外れ、醒井水の里駅へ寄り、ここの名物の六方焼きときんつばを食べて一休み。
醒井宿を抜けた先の樋口集落にも水路が流れていた。国道から離れた静かな歩きが楽しめた。
11:55、番場宿に入って行く。この宿場は、随所に「○○の跡」の新しい標柱は多いが、宿場時代の面影を伝える建物はない。一本道の街並みは街道の町を連想させてくれる。
「瞼の母」の主人公・番場の忠太郎の故郷である碑が立っていた。また、この奥には、1333年、足利尊氏に追われ落ちてきた六波羅探題・北條仲時一行430名が自刃し、鮮血で辺りは血の川と化したと伝わる蓮華寺がある。
番場宿を抜けると、摺鉢峠へ上がって行く。振り返ると、三百名山巡りで妻も登った伊吹山。
摺鉢峠を越えた辺りで、琵琶湖がちらっと見えた。
摺鉢峠を下ると、彦根市へと入っていく。「おいでやす彦根へ」のモニュメントが迎えてくれる。
13:10、鳥居本宿へと入っていく。この宿場は、今でも古い格子の町屋が多く残り、宿場情緒溢れる町並みである。しかし、道が狭く交通量も多いので、ゆっくり散策できない。
江戸時代の大店舗の姿のまま、200年を経て、現在も営業している赤玉神社教丸本舗有川家。
鳥居本のもうひとつの名物の合羽屋。昔の看板だけでも5軒ほど目にした。
ずっと店も食堂もなく、仕方ないので、ここの鳥居本交流館で、手持ちのチョコとソーセージで昼食タイムとした。
15:00、今日のゴールの高宮宿へ。街道は広くなり、交通量も多くなり、これまでほとんどなかったコンビニやスーパーまで姿を現す。
この宿場は、中山道有数の大きな宿場で、古い町並みが続く。もともと多賀大社の門前町として栄えたところてある。また、「高宮上布」と呼ばれた麻織物の問屋として賑わったところでもある。
高宮神社向かいの「布惣」もその一つで、現在は改装されて宿駅「座・楽庵」になり、喫茶やギャラリーになっている。
ホテルが近くなってきたので、残りは明日に回して、高宮神社の中を抜けてホテルへ向かった。
10分で到着した、今夜の彦根アートホテル。朝食付きで、二人で8400円。
今日は、7つの宿場を通過したが、ひとつひとつの区間が短いので、歩いた時間まで短く感じた。また、足の痛みが少しは癒えて、荷物も歩くなった妻が快調に歩いたので、余裕のゴールだった。
また、この区間は、街道がしっかり残っていて、国道を何度も横切るが、国道歩きは少なかった。
夕食は、近くのレストランで、ハンバーグとチキンソテー。
行動時間、8時間。歩数計、43900歩数。