癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

7日目 (野洲駅)~67守山宿~68草津宿~(膳所駅)〈20km+1km)

2016年11月18日 | 登山・旅行
 南彦根駅発7:43の電車で、野洲駅まで戻り、1kmほど歩いて、8:10、中山道をスタート。不要な荷物は、連泊するホテルに置いたままなので、軽い歩きがうれしい。


 少し歩いたら、野洲の道標があった。


 その先の交差点に祀られている背比べ地蔵。鎌倉時代の大小石仏が並び、子供の成長を願って背比べさせたことが名前の由来。


 野洲市内の玉の春酒造の蔵元


 野洲市と守山市の境になる野洲川橋から、近江富士(三上山)を振り返る。

 9:00、守山宿に入っていく。この宿場は、昔、京都から江戸に向かう(東下り)場合、「京発ち、守山泊まり]」が一般的で、約30km地点のこの宿場が最初の宿場で、非常に賑わったという。

  
 宿場内には今も古い家並みが良く残っている。ここは、格子と虫籠窓の美しい「うの家」で、元総理大臣宇野宗佑氏の生家。この中には、当時の守山宿のミニチュアの模型が展示されていた。


 そこで、売っていた琵琶湖海老煎餅(410円)。とても美味しかった。


 守山宿本陣跡。


 東門院の仁王像と大きな提灯。


 広重の浮世絵にも描かれた雰囲気満点の土橋。


 守山宿と草津宿の間にある今宿一里塚。江戸から128番目で、滋賀県内で唯一現存する一里塚。


 10:45、JR草津駅への大通りを抜けて、街道がアーケードの商店街となっている草津宿に到着。この宿場は、中山道と東海道の合流地点である。


 アーケード途中の覚前寺の門前に「右東海道、左中山道」と刻まれた道標がある。これは、明治時代の追分道標。


 江戸時代の追分は旧草津川の下のトンネルを出たところ。「左中山道美のぢ、右東海道いせみち」と刻まれている。これより西は、東海道になることを考えると、ここが、中山道の実質的な終点となる。
 分かっていても、中山道の標識がなくなるのは、中山道歩きをしている者にとっては、非常に寂しかった。

 2つの街道が合流するために、本陣も脇本陣も2つあり、旅籠70余軒を擁する大きな宿場だったという。
 近年、整備・保存が進み、見所の多い宿場町になったようだ。


 内部が公開されている1635年開業の草津宿本陣。その広さと立派さに感心。


 台所の大きさにびっくり。大名などの主客が泊まった上段の間も公開されていたが、撮影禁止。


 草津宿街道交流館。ここでは、本陣一般公開20周年記念のテーマ展「that 's HONJIN!」が開催されていた。本陣の大福帳(宿帳)に、新選組の土方歳三ほか数名の名前があった。


 2階展示室の入口のコーナー


 浮世絵版刷り体験


 昼食は、すぐそばの寿司清の草津名物「はこずし」(手前)(950円)と、本陣すし(1000円)。

 本陣と交流館の見学をし、昼食を食べ終わったら、12:20だった。実に草津宿だけで、1時間半もゆっくりしたことになる。急いだら、いつのまにか国道1号線を歩いていた。少し戻って見失った入口を探した。反対側から東海道歩きをしてきたご夫婦に教えてもらって、旧東海道へと戻ることができた。
 

 街道沿いの太田酒造。太田道灌という酒を造っていた。

 このあと、大津宿を目指したが、大津駅まで行ってしまうと、大津宿を通過してしまう。最後の宿場は明日に残して置きたいので、ひとつ手前の膳所(ぜぜ)駅近くの義仲寺をゴールとすることにして、歩を進めた。


 琵琶湖の南端に架かる「瀬田の唐橋]」を渡る。


 旧膳所城の城門を移築した膳所神社の表門。


 木曾義仲(手前)と芭蕉の墓(奥)がある義仲寺。この地を愛して何度も訪れていた芭蕉は大阪で没しているが、遺言によりここに葬られた。


 膳所駅発16:18の電車で、南彦根駅へ戻った。ホテルに着いたのは、17:20だった。

 街道歩きの行動時間は、草津でのんびりしすぎて、結局は8時間になった。歩数計、約40000歩。

 今日の区間は、田園風景はなくなり、すべて住宅街や商店街ばかりだった。京都が近くなってきた感が強くなった。

 夕食は、このブログを打ち終えてから、近くのディナーバイキングの店へ。シニア価格に合わせて腹8分目に抑えた。