癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

函館レトロ建築探訪(その11)~バス通り付近の「景観形成指定建築物」ほか

2020年06月18日 | レトロ建築・古民家カフェ

 今日は朝から雨模様だったので、このシリーズに取り組んだ。あと残りは、今回と次回で終わりとなる。今回は、船見町とこれまで取り上げた以外の弁天町は次回に残して、バス通り付近の元町・弥生町・大町の「景観形成指定建築物」を中心に紹介したい。

◎プレーリーハウス(旧佐田邸)(元町32-10)<昭和3年(1928年)築>

 元町の日和坂(ひよりざか)の小路の奥にたたずむ歴史的な洋風建築で、「伝統的建造物保存群地区」からわずかに外れたところにある「国登録有形文化財(平成12年登録)」でもある。函館の海産商だった佐田作郎の住居として建てられたもので、その後、すぐに同じ海産商の小熊家の住宅として長く使われた。

 アメリカの著名な建築家F.L.ライトの弟子であり,北海道の自営建築家の先駆けとして知られる田上義也の代表作の一つ。幾何学的モチーフの門扉や窓のサッシ割りなどが斬新で,昭和初期のモダン住宅の雰囲気を伝える逸品となっている。

 数年前は、『日和茶房( ひわさぼう)』としてオープンしていて、その頃に訪問したことはあるが、現在は閉鎖されている。

 過去記事~日和茶房(プレーリーハウス)(2013,9,13) ※現在は見ることができない内部の様子をどうぞ!

 

◎日本基督教団函館教会(旧日本メゾシスト函館教会)(元町31-19)<昭和6年(1931年)築>

 バス通りに面した昭和初期の教会。明治19年、本教会の前身函館美以教会として、現在地に教会堂が建築されたが、大正10年の大火で焼失し、その後燃えない会堂を目指してコンクリート造りで建設された。

 尖頭アーチの窓や塔屋正面の多葉飾りなどヨーロッパ中世のゴシック様式を意識したデザインは、この会堂の建設に携わった建築家萩原惇正が得意としたもので、この建物の他にも北海道大学構内の理学部や農学部など中世スタイルの建築を残している。

 

◎函館市立弥生小学校(弥生町4-16)<昭和13年(1938年)築/平成23年(2011年)改築>

 昭和9年(1934年)の大火後の復興都市計画の一環として耐火構造の小学校が6校建てられたが、その中では最後に建てられたもの。

 コの字型に校舎を建て,校舎に囲まれるように中央にグラウンドがある。大火の際、住民の避難所となるよう意図されている。玄関口となっている2カ所の建物角部分を曲面で仕上げているほかは装飾性を排除した,さっぱりとした外観となっている。

 平成23年、校舎の老朽化の進行が著しいことから、復原・新築されている。その際、半円状の玄関とその上の部分は当時のまま残されている。 

 

◎岩崎家住宅店舗(弥生町8-16)<大正13年(1938年)築>

 小規模な町屋で、当初は、間口3間、奥行き5.5間だったが、昭和10年に向かって右側に1.5間の増築を行っている。

 その後、窓廻りに手が加えられ、縦長窓がなくなっていたが、縦長窓を再現するなど平成11年外観改修工事を行い、上下和洋折衷様式に復原を図っている。

 岩崎家の隣に建つ、長屋風の和洋折衷住宅。これにも「景観形成建築物」のプレートが貼られていたような気がする?由緒や歴史は不明。 

 

◎大正湯(弥生町14-9)<昭和3年(1928年)築>

 船見坂を上ると、左手角地にあるピンク色が目立つ、洋風建築の外観を持つ銭湯。この建物は昭和3年の建物だが、創業は1914年(大正3年)と古い。西部地区に多く見られる洋風建築風の外観が印象的で、古いながらも当時のモダンさが偲ばれる外観だピンク色にしたのは終戦後直ぐだそうだ。

 特に間口と高さの均整がとれており、ペディメントをもった屋根などが一体となった、左右対称の正面の姿には美しさが感じられる。左側にある附属棟は、床屋として当初から建てられていたもの。   

 過去記事~レトロ銭湯「大正湯」入浴(2009,9,5)※内部の様子をどうぞ!

 

◎中華会館(大町1-12)<明治43年(1910年)築>

 国登録有形文化財(平成13年登録)にも指定されている、函館における異国風の建物の中でも、ひときわ異彩を放つ、純中国風の建物。建築当初の姿を伝える関帝廟形式の集会所としては、日本唯一のもの。

 函館が開港されて以降、海産物の買い付けのために多くの華僑が函館に渡ってきたが、そうした華僑達の親睦と連帯を図るための施設として建設されたもの。

 木骨煉瓦造で、煉瓦は1枚半積み、目地は出目地にしている。煉瓦の外観と、瓦屋根、壁窓にはめ込まれた透かしの飾りが美しい建物。

 

◎旧小林写真館(大町2-9)<明治40年(1907年)築>

 東坂に面した、現存する写真館としては道内最古と言われる洋風の建物。平成20年に空き家となったが、復原改修を経て、平成21年から新たな写真館(タニスギ写真館)として利用されていた。しかし、今年3月に閉館となっている。

 竣工当時と比べると、2階バルコニーが撤去されて、建物向かって右側に増築された部分があるが、原形がほぼ残されている。

 上げ下げの縦長窓、胴蛇腹、下見板張りなど洋風建築の特徴をもち、また、懸魚風妻飾りがペディメントに付けられ、軒天井と軒蛇腹が一体となってまとめられていることなど、当時の洋館建築に係わった職人達の思いと工夫が感じられ、写真館として栄えた創建当時の函館のハイカラな雰囲気を偲ばせる建物である。

 

◎函館元町ホテル 蔵の宿(大町4-5)<大正元年(1912年)築>

 左側に建つ蔵が「景観形成指定建築物」。度重なる大火の経験もあったためか、地域内では土蔵が数多く残されているが、その中でも比較的良い状態で保存されているもので、漆喰塗りとささら子下見板の組み合わせが美しい建物。現在は「函館元町ホテル 蔵の宿」として利用されている。

 

◎松原家住宅(大町5-2)<明治43年(1910年)築>

 大きな切妻屋根が特徴の京風町家。実際に建築時には京都から大工を呼んだとの話もある。明治時代の建築とは思えないほどの保存状態に、建物の質の高さと、当時の商人(海産商)の隆盛ぶりが垣間見られる。

 様々な意匠の建物が町並みを形成する中で、この純和風建築は一服の清涼感を与えてくれる、貴重な建物。


城岱スカイラインヒルクライム第2弾

2020年06月17日 | MTBロングライド・ヒルクライム

 今日は、5/12以来、今年2度目の城岱スカイラインのヒルクライムにトライ。目指す城岱スカイラインの上空は厚い雲で覆われていたが、平野部は晴れていた。

 今日の目標は、城岱スカイラインの入口から展望台まで、1時間を切ることに設定。そのために、立ち止まってカメラのシャッターを押す以外は休まないようにした。結果、これまでで最速の54分で展望台に到着することができた。これが今後の目標になる。

 ヤマレコで採ったログ・・・スカイラインの下りはスピードは速すぎて、途中直線になっている。

 当初の予定は、城岱スカイラインをそのまま下って大沼を1周して国道5号を戻る予定だった。ところが、展望台を出発して最高地点を越えようとしたら、雨が降ってきた。雲の様子を見たら、大沼の方へ下りても雨に当たりそうなので、そこから戻ることにした。

 上の方は雨の中のダウンヒルとなったが、下まで下りたら平野部は晴れていたので、帰路は、七飯の道の駅の方へ走り、北斗市の千代田方面へ直線的に続く道路から久根別へ抜けて、国道228号を戻った。走行距離50.9km、所要時間4時間05分だった。朝8時すぎに出たので、昼には帰宅することができた。

 家から登り勾配の12kmを1時間で、スカイライン入口に到着。ここから展望台までの7.3kmは、きじひき高原の入口から展望台までの距離とほぼ同じである。しかし、標高差がこちらは410mしかないが、きじひき高原の方は480m。当然、こちらの方が平均斜度は緩やかなはず。だから、休まないでも登り切ることができたのであろう。

 これまでの経験から、ヒルクライムの部分はギヤを勾配に合わせていちいち調整するのではなく、下り部分以外は前2×後4で固定して登った方が楽だということが分かったので、今回もそうした。

 スカイラインの標高300m付近からきじひき高原とそこまでのヒルクライムで利用する道路が走る尾根斜面を眺める。

 そのすぐ上から函館方向を眺める。眼下は七飯町の市街地。

 これまでの最高タイム54分で展望台に到着。右は七飯岳山頂部。

 展望台そばに放牧されている牛。

 展望台入口から先の最高地点(568m)から正面に山頂部を雲に覆われた駒ケ岳が見える。

 ここから大沼方面へ下ろうと思ったら雨が降ってきた。大沼へ下りても雨に降られそうな感じだったので、来た道を戻ることにした。

 展望台下の牧場の牛と函館山を眺める。平野部は晴れているが、この時はここは雨だった。

 雨の中のダウンヒルとなった。ジャンパーを着ていたが、冷えてしまった体と手が温まるのに多くの時間を要した。平野部は晴れていたので、そのまま帰るのもったいないし、物足りない。そこで函館新道の側道を北上し、道の駅なないろななえの前から新前函館北斗駅に通じる道路を走り、そのまままっすぐ清水川~千代田~久根別と走って、国道228号へ抜けて帰ることにした。

 国道5号から新函館北斗駅へ通じる道路沿いにサルビアをずっと植える作業をしていた。

 清水川~久根別間の道路は、松前藩時代には松前方面から奥地に向かう旅人の幹線道路で、開拓の歴史も古い。その証拠を残す神社をカメラに収め、説明板も読んで、歴史の勉強もしながら走った。

「清水川稲荷神社」・・・清水川開祖の一人東山熊五郎が万延元年(1860年)に清水川に定住した際に勧進した。

 当時の清水川の東側一帯は、箱館の高龍寺の水田となっていた。この千代田へ向かう清水川道路・用水路は、当時の水田造りの際に整備された。

 「千代田稲荷神社と藤田翁頌徳碑」・・・神社は、寛政6年(1793年)に勧進。明治9年に村社となる。

 藤田市五郎翁は、開拓精神に富み、この地区の農業発展の基礎作りに励んだとされる。明治44年(1911年)ケチャップの製法に取り組み、温室栽培を取り入れ、昭和6年には、ピューレ(ケチャップの原料)の製造に成功し、年間25,000(ビール瓶相当)を生産し、函館五島軒と契約して納入したとのこと。

 「千代田の庚申塚」・・・北斗市の庚申塚は本郷、市渡、文月、千代田にあり、本郷が寛政8年(1796)建立で一番古く、2番目は文月の文化9年(1812)、ここ千代田は嘉永3年(1850)である・・・いずれも江戸時代のもので、昔の旅人が多く通った名残である。

 「一本木稲荷神社」・・・ここも寛政年間(1789年~1801年)の勧進。

 「一本木地名由来の木」・・・この地にあったアカダモ(ハルニレ)の大木から名付けられた。このことは寛政3年この地を通った菅江真澄の旅行記ににも記されている。

 それにしては細いなと思ったら、昭和29年の洞爺丸台風で倒れたが、その根元にあった稚樹が、成長してこの木となったようだ・・・納得!

 五稜郭駅のこ線橋の上から、七飯岳下の城岱スカイラインの走る尾根斜面を望む。

 今のMTB(マウンテンバイク)は20年ほど前に買ったものだが、今年になって一番活躍している。新型コロナの影響で、山旅にも歩き旅に出られないこともあり、利用する機会が多くなっている。太腿に一番負荷が掛かるので、楽しみながらそれが登山や歩きやクロカンスキーのトレーニングになっていれば最高である。今後もこのヒルクライムとロングライドを組み合わせて、雪が降るまで続けたいものである。


アベノマスクが500円丼に・・・

2020年06月16日 | 食べ物

 函館朝市えきに市場の店舗が加盟する函館駅二商業協同組合青年部が、アベノマスクの寄贈を受け付け、未開封1セットに付き500円の商品券と交換する取り組みをしていたが、21日で終了するというので、慌てて行ってきた。

 すでに想定外の3000枚を越えたようだ。これらのマスクは函館や近郊の保育・高齢者施設へ寄贈されるらしい。

 それにしても、新型コロナで観光客が皆無状態になり、売り上げも激減している中での大英断には驚くばかりである。

 500円の商品券と交換したその足で、500円丼の朝市食堂二番館へ・・・

 アベノマスクが10分もしないうちに500円(税別)の「五色丼」に化けた・・・妻と2人だったので、+600円だったが・・・。


胃カメラ検査→ピロリ菌の除菌はせず

2020年06月16日 | 大腸癌以外の検診・健康関係

 昨年の4月以来の胃カメラ検査をした。その目的は、ピロリ菌をどうするかということだった。実は昨年の3月にも胃カメラ検査をした際に、ピロリ菌がいてそれが原因の萎縮性胃炎の跡も見られるということが分かった。しかし、その時の血液検査で、ある腫瘍マーカーが高かったので、その検査の方を優先しましょうということになった。その後、CT検査や膵臓のMRI検査もしたが、異常なしだった。しかし、ピロリ菌のことはすっぽかしたままになっていた。

 しかし、やはり気になって、先週、相談を兼ねて診察に行った。ピロリ菌の除菌は、高齢(70歳以上)になればなるほど、効果は半減するので、積極的には勧めないが、希望するのであれば応じるということだった。そこで、1年以上経っているので、胃カメラ検査をして、その結果次第で改めて相談するということにした。

 今日の検査の結果は異状はなかった。ピロリ菌の除菌については、いろいろ相談したが、高齢ゆえにあまり効果が期待できないこと(医師も積極的には勧めなかった)、一定期間が必要な、副作用の心配があるかもしれない薬は飲みたくないこと・・・などから除菌はしないことにした。ただし、これからも1年か2年に一度、大腸カメラ検査同様に胃カメラ検査も続けることにした。

 それはそれで良かったのだが、血液検査の結果で、また昨年と同じ腫瘍マーカーが少し高くなっているという。昨年も大丈夫だったので、放っておいても良いと思ったが、先生の「でも、癌を経験しているので、とりあえずCT検査くらいは受けておいたほうが良いのでは・・?」という言葉に負けてしまい、予約を入れてもらった。混んでいて、一か月以上もあとの7月22日になった。

 胃カメラ検査は、12年前の大腸癌以来、いつも経鼻検査でお願いしている。管も太くて苦しくて、吐き気に悩まされる経口より、8割以上は楽だからである。

 今日の検査の費用は1割負担で1,240円だった。このくらいで安心できるのであれば、毎年でも良いと思う。なにしろ、後期高齢者医療保険で月々4万円も取られているのだから、使わなきゃ損?である。介護保険もガバッと取られているが、こちらは一生使わないで済ませたいものである。


もろもろ雑ネタ4題

2020年06月15日 | 日常生活・つぶやき

◎スタッドレスタイヤをAmazonで購入

 今夏は4シーズン履いたスタッドレスタイヤをそのまま履き通している。タイヤメーカーに言わせると、好ましくないとのことだが、車を乗り始めてから、45年間で10数回は同じことを繰り返している。特に危険を感じたことはない。

 今回、知人からの「タイヤをネットで買うと、凄く安いよ」という話を参考に、初めてトライしてみた。秋には買わなくてはならないスタッドレスタイヤ(これまでと同じGOODYEAR  ICENAVI  215/65R16 98Q)を調べてみたら、新品4本セットで41,003円(送料無料)だったので即購入。これに組み換え料とタイヤ交換料などの諸経費をを加えても1万円は掛からないだろう

 4年前にジェームスのキャンペンセールで購入したときは、諸経費込みで6万円ほどだったので、1万円以上安くなる計算だ。来春には夏タイヤも購入する予定である。

 ちなみに、1本でも10,180円なので、パンクやバーストして1本だけ必要な場合も非常に助かる。

 

◎ワークマンプラスで山シャツと山ズボンほかをゲット

 登山用品店で山用の衣類等を買うと、非常に高い。これまでもプロノで代用品を見つけることが多かった。しかし、幸いなことに、山仲間の間で話題となっているワークマンプラスが、北斗市七重浜町に函館地区初出店となった。先日、入ってきたチラシを見たら、山シャツと山ズボンになりそうなものがあったので行ってみた。

 結果、肌がさらさらZERO・-5℃シリーズの「長袖ハーフジップ」(1500円)、吸汗速乾機能「エアロストレッチクライミングパンツ」(1900円)、さらに、小さく折りたためる「サブザック(アタックザック)」(500円)をゲット・・・安過ぎ!

 着心地も履き心地も申し分なく、十分に山用として使える代物である。雨具なども上下5000円以内で売っている。まだ間に合っているが、ぜひ使ってみたいものだ。秋になったら、冬山用に使える物も探してみたい。

 

◎丸亀製麺で鬼おろし肉ぶっかけと坦々うどんを食す

 6月から、近くの丸亀製麺の新メニューで、鬼おろし肉ぶっかけと坦々うどんが登場したので、食べに行ってきた。

自分の注文した鬼おろし肉ぶっかけ・大(税込800円)

 歴代冷やしうどんで一番人気というだけあって癖になりそうな絶品だった。甘辛く煮込んだたっぷりの肉と別皿で提供される山盛りの鬼おろしをうどんにからめて食べると、肉のジューシーさとおろしのハーモニーとさっぱり感がなんともいい感じ・・・。

妻の注文した坦々うどん・温・並み(税込650円)・・・これも美味しい!冷たいのもある。

 

◎ヒリヒリ・・初日焼け

 12日のきじひき高原ヒルクライムで、今シーズン初の自転車用短パンで走ったら、見事な日焼けになり、ヒリヒリと痛かった。夏到来を実感・・・!


戸井地区の産業遺産探訪

2020年06月14日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 函館市旧戸井地区には、産業遺産や近代土木遺産に指定されている遺構として、「コンクリートアーチ橋」、「鰯袋澗」、「汐首崎砲台遺構」があるという。コンクリートアーチ橋はいつも見ているが、汐首崎砲台のことは知ってはいたが見たことがないし、鰯袋澗に至っては、初めて知った次第・・・ということで、カメラに収めに行ってきた。

コンクリートアーチ橋

 これはいつも目にしている旧戸井線の遺構である。津軽要塞の一部をなす汐首岬第一・第二要塞へ兵員物資の輸送目的で昭和11年(1936)着工。しかし戦局の悪化とそれに伴う資材不足から、昭和18年(1943)に全線29.2キロ中、2.8キロを残して工事は中断。したがって廃線ではなく幻の鉄路と言われている。

 敗戦によって戸井線の必要性も失せたことから、戦後は工事が再開されることも施設が維持管理されることも無く放置されたままになり、昭和46年になって戸井線全線は土地を含めて国鉄から自治体に無償譲渡されている。

 しかし、鉄が不足していた戦時中に建設されたために、橋脚や陸橋のコンクリートは鉄筋の換わりに木材や竹が使われていたり、コンクリート自体も粗悪なうえ長年風雨と潮風に晒されてきたため非常に脆くなっていて、専門家からは崩壊の危険性が指摘されている。

 なお、これらのアーチ橋の上は今でも歩けるし、自分も、湯の川から終点駅の予定だった戸井支所まで、この旧戸井線の上を歩いている。↓↓↓

旧戸井線探訪ウォーク②「湯の川~戸井間」の( 23km)」の記録 (2015,3,26)

旧戸井線探訪ウォーク①「五稜郭~湯川間」の記録(2013,12,11) 

 

鰯袋澗

 「袋澗」は2006年(平成18年)2月17日に水産庁が発表した「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選ばれているが、ここ以外の北海道の袋澗は、日本海側に多く残るニシンの袋澗である。それだけにこのイワシの袋澗は非常に貴重なものらしい。

 町史によると戸井町の鰯漁は、文政年間から始まり明治33年から昭和14年まで40年間も大漁が続いたそうだ。しかし現代のように設備が整っていなかった時代の事、海がシケて鰯を沖揚げ出来なくて海に棄てる事があったそう。そのような事態を避けるために網元によって造られたのが、この「袋澗(鰯をつめた袋網を入れた澗)」。

 町史によると、戸井町で最初に「袋澗」を造ったのは、小柳吉太郎氏で明治42年(1909)で、氏が若い頃に鰯漁の出稼ぎに出た後志地方で見たものを、地元に帰ってから見よう見まねで造ったらしい。以後、汐首岬周辺には石田玉蔵氏が明治44年、吉崎吉松氏が大正5年、境氏(名不詳)が大正6年、西崎吉太郎氏が対象7年、吉崎岩吉氏が大正12年に「袋澗」を造ったとのこと。


 写真に撮った「袋澗」は、「北海道~本州最短の地」の看板のすぐ下にある。これは、大正12年に吉崎岩吉が造ったもののようで、「吉崎の袋澗」と呼ばれている。

 

汐首崎第一砲台跡

迷彩色が印象的な旧戸井高校グランド手前の砲台遺構

 函館要塞は、明治29年頃から函館港と函館湾を守備することを目的に要塞設置が計画され、函館山全体が要塞となった。昭和に入り、守備範囲を広げる為に竜飛崎砲台及び汐首崎砲台及び大間崎砲台を完成させて、昭和2年名称を津軽要塞と変えている。
 昭和4年(1929)6月に工事が始まり、同8年に竣工。これにより、要塞は函館だけではなく津軽海峡全体を守ることとなった

 函館市史によるとこの周辺には全部で30cm榴弾砲が4門配備されていた。当初の予定では、汐首崎第一砲台には7年式30cm長榴弾砲計8門が配備される予定だった。しかし、刻々と変わる国際情勢により計画も再検討され、「汐首崎第二砲台」が昭和13年に起工し、途中で備砲を45式15cmカノン砲(改造固定式)2門から 96式15cmカノン砲4門に変更し、15年6月に竣工。逆に同年7月、汐首崎第一砲台の30センチ榴弾砲は撤去されている。

 最初は、旧戸井高校の前を通って奥へ進み、右手にあるグランドへの道路を入った。そのグランドの手前にあったのが、トップ画像の遺構である。この画像の右に写っている遺構は、トップ画像の裏側である。

 トップ画像の右手にある遺構は一段低いところに続いているようなので、道路を戻って、古い市営住宅の奥に見える方へ入ってみた。

グランドの右手に見えた遺構で、下の2枚の写真と半円状に繋がっている。

その右に続く中央部。木が植えられているところは円形になっているので、台座の跡か?

右翼部

 左翼部の内部は写真のようになっている。以前は付近の住民の物置となっていたようだが、今は整理されていて、中へ入れないようになっている。今日お会いした近所の方の話では、第二次世界大戦時には、砲台としての機能は終わっていて、住民の防空壕として利用していたとのこと。

 ちなみに、この敷地は旧戸井高校の奥にある古い市営住宅やグランドに接しているので、所有者は北海道もしくは函館市と思われる。付近にはこの遺構を伝える看板や標識などのものは一切ない。

 個人的には、非常に疑問が残る。汐首崎砲台というのに、海岸から1kmほど奥まった谷あいにあり、津軽海峡は見えないところである。このような海も見えないところに砲台を造った意味がが全く分からない。函館山要塞跡でも砲台は海が見える突き出たところや高いところに造られている。

 なお、汐首岬第二砲台、砲弾倉庫、観測所、地下火薬庫などは戦後、GHQの手によって爆破され、その痕跡はほとんど残っていないという。しかし、検索していたら、場所等の説明はないが、第二砲台跡の探訪写真中心のページが見つかった。今日お会いした近所の方の話では、「日新中学校の上の険しいところに砲台があったと聞いている」とのこと。これが第二砲台なら、高いところで海も見える。

 また、自分が、ここから直線距離で3kmほど東の、日浦岬の上の日浦御殿山(219m)に登った時に、やはり津軽要塞跡の遺構と思われるものを目にしている。

 であれば、もっと近く(直線距離で1.5km)の武井ノ島展望台に砲台か監視所(観測所)などがあっても不思議ではないと思い、帰りにそこにも寄ってみたが、それらしい遺構は見当たらなかった。しかし、今は展望台と東屋が建っているところにそれらがあったのかもしれない?

武井ノ島展望台から武井ノ島を眺める

展望台に咲いていたハマナス

展望台への遊歩道に咲いていたシュロソウとエゾキスゲ(エゾカンゾウ・エゾゼンテイカ)


改訂版『北海道夏山ガイド④~日高山脈の山々』が恵贈

2020年06月13日 | 登山・旅行

 今日は、有珠山周辺地域ジオパーク友の会主催の「昭和新山登山学習会」の予定だったが、昨夕になって急遽延期のメールと電話が入った。その理由が、「昨晩19時頃昭和新山の道道で熊の目撃情報があり・・」とのこと。

 この登山学習会は、当初の計画では、5/9(土)だったが、新型コロナの影響で延期になり、さらに、今度は熊騒動で6/20(土)に再延期となった。

 絶好の登山日和だったが、急にどこかへ出かけようにも思いつかずうじうじしていたら、この度改訂となった最新第3版『北海道夏山ガイド④~日高山脈の山々』が贈られてきた。

 取材協力者へは、毎度献本されているので、これまでも何冊かいただいている。今回の取材協力(執筆陣の長谷川哲さんと同行)は、ペンケヌーシ岳、幌尻岳(新冠コース)、ペテガリ岳、楽古岳の4山で、モデルとしてたくさんの自分が写っている。

 なお、この度の改訂は、日高や東大雪はいまだ2016年の台風の爪痕が大きく、また林道の状況なども刻々と変わっています。ガイドブックとしても、どう紹介するかなかなか難しいものがありましたが、可能な限り新しい情報を盛り込み、写真も大幅に差し替えました。

 書店で見かけた際にはぜひ手に取ってページをめくっていただければ、(もちろん、ご購入いただければなおのこと!)嬉しく思います・・・とのこと。明日から、書店に並ぶらしい。

 以下は、自分がモデルとして写っているページの画像をスキャンして、切り取ってアップしている。リンクしてある取材時の山行記と合わせて見ていただければ幸いである。
 
 
 
 

 

〇ペテガリ岳(2019,7.10~12)

 

〇楽古岳(2017,9,22)


きじひき高原ヒルクライム第2弾 & HTBで捜索の様子が放映

2020年06月12日 | MTBロングライド・ヒルクライム

<パノラマ展望台ハウスの横から眺める駒ケ岳と大沼・小沼>

 6/1から、きじひき高原の全ゲートが開放されて、数年ぶりに石川沢川ゲートから国道227号へ抜けて周回できるようになった。そこで、今日は、5/26に引き続き、「きじひき高原ヒルクライム」第2弾として、自宅からその周回に初トライとなった。

 きじひき高原入口までの往復は、往きは最短距離の大野新道を走り、帰りは七飯扇状地末端部と大野平野の境目に延びる広域農道を走った。

<きじひき高原周回部分のGPSトラックログ>

 総距離は58.1kmもあったが、勝負は最高地点(660m)までで、あとは平野部の道路も含めて下り勾配なので、後半はダウンヒルとサイクリングモードが楽しめる。

 今回は、噴火湾展望台のすぐ下にある「きじひき公園」を目的地として、そこで30分休んで、石川沢出口までのダウンヒルを楽しんで周回した。

 <行き> 8:20自宅発~9:30高原入口9:40~10:45パノラマ展望台10:55~11:15きじひき公園<2時間55分>(30分昼食休憩)

 <帰り> きじひき公園11:45~12:10石川沢出口~(国道227)~12:45高原入口~13:20帰宅<1時間35分>

 今回は、ヒルクライム部分は、休憩ポイントを「匠の森入口」(5分)、「キャンプ場入口」(5分)「パノラマ展望台」(10分)と決めて、それ以外は辛くても休まないで頑張ることを目標にした。結果、時間的にはわずかながら短縮できたし、脚力が付いたのか、前回より楽な感じだった。

 国道227号の東前付近から望むきじひき高原

 

 自宅から16kmを1時間10分で、きじひき高原入口到着。一休みしてエネルギー補給。

 

 高原入口から1時間15分で、パノラマ展望台に到着。

 

 パノラマ展望台から展望ハウスと函館平野を見下ろす

 

 展望台の上の観音像とその上の木地挽山山頂部を眺める

 

 噴火湾展望台からは今日も山頂部を雲に覆われてはいたが、羊蹄山が見えた。

 

 パノラマ展望台から20分で「きじひき公園」到着。昼食を摂り、30分のんびり休んだ。

 

 きじひき公園のそばで草を食む親子馬の一団

 

 下りは寒いのでジャンパーを着て、きじひき公園を出発。このあと少しの登り返しはあるが、その後は、初走行の石川沢出口までのダウンヒル。

 

 途中から近くに見える二股山~三九郎岳(右)の稜線を眺める

 

 きじひき公園から、わずか25分のダウンヒルで、国道の石川沢出口出る。このあとの国道も下り勾配で休憩モードが続き、さらに15分で登りの高原入口を通過。

 このあとは、同じ道を帰るのもつまらないので、新函館北斗駅前を通り、新幹線高架脇の道を走り、そのあと広域農道を走った。

 高架を潜る地点からきじひき高原を眺める。田植えが終わった水田に沿って伸びる新幹線高架・・・大好きな撮影ポイントである。

 日差しは強かったが、風も強くて爽やかだった。今年はMTBの回数が多いので、脚力が付いてきたのか、今までよりあまり疲れを感じなくなっているような気がする。

 

HTBで放映された我々の捜索の様子

 HTB北海道テレビの「イチオシ」の18:15~19:00のニュースの中で、6/7の恵山の捜索の様子が放映されることが、新聞のTV欄にも丁寧に前もって掲載されていた。詳しい時刻は分からないので、番組全体を予め録画をしておいた。

 ここに掲載した画像は自分たちの捜索の様子を中心にTV画面を写したものだが、事件の経過や、警察・消防・自衛隊による捜索の様子、その後に、我々の捜索の様子が詳しく編集されていた。

 我が班の1名が依頼されてヘルメットにカメラを装着していたので、現場での捜索の様子も映し出されていた。

 4分以上もの長さに丁寧に編集されていて、発見はできなかったが、我々の意図や苦労が十二分に反映された内容だったことに感謝申し上げたい!

 HTB北海道テレビのホームページからも映像が視られます。


函館レトロ建築探訪(その10)~十字街から弁天までの市電通りのレトロ建築物

2020年06月11日 | レトロ建築・古民家カフェ

<お知らせ>

夕方に、HTB北海道テレビから連絡があり、先日の捜索の様子が、下記予定で放映されるそうです。
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■放送予定番組
「イチオシ!!」(月ー金・午後3時45分~午後7時※道内ローカル)
※その他HTB・テレビ朝日系列の番組・各種媒体で発信する場合がございます。
■放送予定日
2020年6月12日金曜日
※午後6時15分~午後7時の道内ニュース枠
※事件事故などニュースの状況により変更となる可能性あり
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あらかじめ、録画されておいた方が良いかと・・・?

 今日は久しぶりに雨模様の1日だったので、恵山捜索の件でしばらく中断していたこのシリーズを再開・・・写真はだいぶ前に撮ったものだが、いろいろ調べるのに時間が掛かるので、このような天候の日はありがたい。

 今回は、十字街から弁天までの市電通りの末広町・大町・弁天町のレトロな建築物を紹介したい。 

北斗ビル(旧目貫商店)(末広町17-15)<大正10年(1921年)築>

 明治12年(1879年)に起きた大火を教訓に防火帯として設置された二十間坂下に建つピンク色が特徴のビル。銀座通りに多く見られる鉄筋コンクリートブロック工法。

 もとは外米、砂糖、麦粉を取り扱う目貫商店の自社ビルとして大正10(1921)年に建てられたものである。この年の4月には函館の中心部で大火が発生し、それを機に建てられたのが旧目貫商店のビルだった。(建築物の指定なし)

 一時ホテルとして営業していたこともあるが、現在は1階にはアパレル雑貨ショップが入居しているようだ?

 大正11年の絵葉書に竣工当時の姿が写っている旧目貫商店~屋上にペレットが付いている。

SEC電算センタービル(旧百十三銀行本店)(末広町18-15)<昭和元年(1926年)築>

 八幡坂下の角地に建つ。古い建物には見えないが、明治11年北海道で最初の地場銀行として函館に創設された第百十三国立銀行が、明治20年に改称され、第百十三銀行となった後の、昭和元年に本店として建てられたもの。

 当時のドイツ建築様式を巧みに取り入れたもので、中央に出入り口を取った左右対称の外観で、両側に半円柱が並ぶ古典様式の形式を踏襲しているが,パラペット部を連続する三角形で飾り、入口両側の柱装飾や入口上部に並ぶ半円形の小窓などドイツ表現派風の意匠も取り入れられ、古典建築と近代建築の様式が洗練されたデザインで組み合わされている。 

  設計者は、函館に数々の名建築を残した建築士・関根要太郎、施工は日本初のコンクリート寺院・東本願寺函館別院や東京銀座の松屋を造った木田保造(木田組)が担当。(景観形成指定建築物)

HakoBA函館(旧安田銀行函館支)(末広町23-9)<昭和7年(1932年)築>

 安田銀行は、大正末期から昭和10年代中頃にかけて、全国各地に同じ形態の支店を建設しており、外観は中央に円形の付け柱を4本建て、その間に縦長の窓を開け、両隅の壁にも小さな縦長窓を設けていた。その一つが函館支店で、昭和7年に大林組の施工で竣功している。

 函館支店は,昭和43年に函館どつくの外人専用ホテルとして転用されたが、銀行建築のみならず近代建築の再利用としては全国的にも比較的早い事例のものらしい。   

 小樽市にも昭和5年に建設されたものが現存(現日刊北海道経済新聞社)しているが、外観に類似性が認められるとのこと。(景観形成指定建築物)

 

市立函館博物館郷土資料館(旧金森洋物館)(末広町19-15)<明治13年(1881年)築>

 明治11、12年の大火後に豪商渡辺熊四郎が洋品小間物店として建てたもので、年代が確実に判明するものとしては地域内の商家建築の中で最古。

 函館近郊の茂辺地煉化石製造所(北斗市)で造られた煉瓦を使用して建てられており、建物側面の一部に明治7、8年の刻印が入った煉瓦を見ることができる。

 開口部は正面と裏側の出入り口、2階部分の窓だけで、側面には開口部が無く、耐火を意識した開口部の少ない造りとなっている。また,伝統的な土蔵造りの技法を用いて、1階入口部、2階窓内側には分厚い塗り込め戸が取り付けられ、屋根には野地板の上に煉瓦を敷き詰めその上に瓦をのせるという耐火に対する意識が徹底した造りとなっている。

 外観意匠では、煉瓦の表面を漆喰で仕上げてあり、建物隅部や入口・窓周り等には隅石が型どられるなど、明治初期に全国的に建築された擬洋風建築の意匠要素が見られるという。また、1階正面の鋳鉄製の柱で支えられた3連アーチや鋳鉄製ブラケット等は、その後函館に建築される商家建築にも共通して見られる手法とのこと。(北海道有形文化財・景観形成指定建築物)

 

函館市文学館(旧ジャックス社屋・旧第一銀行函館支店)(末広町22-5)<大正10年(1921年)築>

 第一銀行の函館支店として建てられたもので、近傍にある銀行建築と同様に、中央に出入り口を設け、左右対称となっている。

 花崗岩とタイルの茶色が調和し、石に刻まれた装飾も美しい建物である。基本構造は鉄筋コンクリートと煉瓦の部分が分けられて使われており、鉄筋コンクリート構造が取り入れられていく過程での中間的な構造と考えられている。

 ジャックス社屋としての再利用を経て、平成5年、函館市文学館として生まれ変わっている。(景観形成指定建築物)

 

函館市北方民族資料館(旧日本銀行函館支店)(末広町21-7)<大正15年(1926年)築>

 基坂通と市電通りの角に建つ大型ビル。大正末期に建てられた日本銀行函館支店だったもので、今は改修されて函館市北方民族資料館になっている。アイヌ・ウイルタ民族などの北方民族資料を展示している。

 改修されているので、重厚ながら銀行らしさが薄い建物だが、石貼り風の外壁に、玄関周りの柱は当時の姿を留めている。鉄筋コンクリート造り、3階建て。(建築物の指定なし)

 

橋谷家住宅・旧店舗(大町6-12)<大正10年(1921年)ころ築>

 目に付く建物だが、大町電停のすぐ西側にある古い洋館。左側に住宅、右に蔵のような旧店舗が並んでいる。歴史的建造物の指定もなく、情報が少ない。

 横へ回ったら、現在も居住しているような?感じで「橋谷巳之吉」の表札も下がっている。市内のあちこちに広大な土地や倉庫を持つ「橋谷株式会社」(本社神戸市)の住宅と旧店舗であろう。橋谷株式会社は、明治28年に橋谷巳之吉が函館で創業し、第二次世界大戦前までは現在の食品卸売業、倉庫業、不動産業の他、本社登記のある神戸を拠点として海運業も行なっており旧満州の拠点を含む当時の日本国内の物流を自社の航路で担っていた。当社の屋号である(ダイボシ)は、所有していた船舶の名前(大星丸)でもあり、昔から『ダイボシさん』として地域に親しまれてきた。

 住宅は木造に石貼り風の外観。2階には縦長の上げ下げ窓のある洋風建築だが、屋根は方形屋根、玄関庇の破風も和風になっていて、いわゆる和洋折衷といえる。石貼り風に見えるが、モルタル塗りに目地を切りこんだものかもしれない。玄関上部や、2階の窓の上部には洋風のレリーフがあしらわれ、建物両側と玄関両脇の柱には白いタイルが貼ってあるなど、かなり凝った意匠です。木造2階建て。

 一方、隣の旧店舗と思われる、蔵造りの重厚な建物。函館で多く見かける形状ですが、少し色褪せた白い外壁が存在感を主張している。こちらは土蔵造り2階建て。(建築物の指定なし)

 

ワインショップ・丸又和田商店(弁天町14-11)<明治13年(1881年)前後築?>

 1階が和風、2階には洋風のアーチ型の両開き窓を設けた角に面した和洋折衷土蔵店舗。和田商店は後に建物を引き継ぎ、明治40年から平成10年までこの地で商いを行っていた。明治11年末にこの地域が大火で焼失しており明治12年から14年の間に建てられたもので、明治中期の遺構として数少ない貴重なもの。

 『丸又 和田商店』土蔵店舗はその後、住宅と車庫へとリフォームされていた。現在の4代目当主は、この家に住みながら建物を守り現在の中心部本町へと「ワインショップワダ」を 出店していたが、ここをリノベーションしてここへ店を移した。(建築物の指定なし)

 現在の店長の和田一明氏は、日本ソムリエ協会1999年ワインアドバイザー選手権で準優勝した方のようだ。

 

 明治18年に発行された『北海道独案内商工函館の魁』に描かれた「和田商店」の絵。

 軒下に残っている商標を見ると、店名は丸又和田商店となっているが、もともとは醤油店だったようだ。

杉野三次郎商店(弁天町16-3)<明治18年(1885年)前築>

 函館でも古い部類に入る現存する蔵造り風商家建物の一つ。以前は建物両脇に防火目的の〔うだつ〕が付いていたそうだが、昭和43年の十勝沖地震で損壊したという。それでも貫禄十分の函館の古建築である。最近リノベーションされたようできれいになっている。

由緒不明の古い建物

 大町や弁天町の市電通りには、特に指定を受けていない、歴史を感じさせる由緒不明なレトロな建築物が多く見られる。

 弥生坂下の角のこの建物は、取材時には外装のリノベーション工事の最中だった。今日撮り直しに行ってきたが、内装工事中のようで、まだ何に使われるかは不明な感じだった。


函館港ふ頭巡りサイクリング(28km)ほか

2020年06月10日 | MTBロングライド・ヒルクライム

 今年の最高気温27.4℃%を記録した今日の午前中に、MTBで、浜風を浴びながらの函館港ふ頭巡りサイクリングをした。

GPSトラックログ(青線)と函館港のふ頭

<港町ふ頭>

 大型クルーズ船が着岸する、一番大きなふ頭だが、今は釣り人の天国

<北ふ頭>

 青函フェリーターミナル

<万代ふ頭>

 函館どつく方向を眺める

 サビキで一度に6匹のサバを釣り上げた人。本人はイワシが欲しかったらしい。

 鉄くずの山・・・これも積み出すのだろう

<中央ふ頭>

 木材の積み込み作業風景。左の建物は「函館市港湾合同庁舎」

 中央ふ頭こ線橋と竣工記念碑

<海岸町船だまり>

イカ釣り漁船の出漁準備・・・能登半島沖まで行くらしい。

 大型クレーン船

<若松ふ頭>

 青函連絡船摩周丸記念館

<豊川ふ頭>

魚市場のふ頭・・・イカ釣り漁船が接岸していた。これらの船も能登半島沖まで行くらしい。

 

 おなじみのベイエリア・・・相変わらず観光客の姿はない。

<緑の島>

 昔の東濱岸壁から眺める緑の島

緑の島のイベント広場と奥はサッカー場

 ハマナスとヨットハーバー

ここ2~3年で急増して、眺めが変わった函館駅周辺のホテル群・・・新型コロナの影響で泣いている。

 港内のしゅんせつ工事

<西ふ頭>

ここも釣り人の天国・・・奥は函館どつく

函館どつく敷地の端にある古いレンガ造りの倉庫

<入舟漁港>

 現代土木の父と呼ばれた廣井勇博士が設計・監督した明治29年の石積防波堤を修復・保全しながら改良し、防波堤が新しく生まれかわった。

<海洋研究センター敷地>

函館市国際水産・海洋総合研究センターと練習船おしょろ丸

<帰りに巴大橋の上から眺める海岸町船だまりとその北側のふ頭>

 

〇今日の昼食

 妻手作りのいかめしと昨日ひと潜りだけしてゲットしたタケノコ


花盛りの大千軒岳(旧道コース~新道コース)

2020年06月09日 | 登山・旅行

 大千軒岳は3年ぶりである。しかし、その時は7月だったので、花のピーク時の訪問は4年ぶりとなる。花のピークは例年6月10日前後である。今週の天気予報を見たら、今日と明日は好天予報である。このチャンスを逃すわけには行かない。幸い、今年は数年(10年近く?)ぶりに、旧道コース登山口と新道コース登山口のある長い道々607号(石崎松前線)が通行可能になったので、11年ぶりに、旧道コース~新道コースを周回することにした。

 知内町の萩茶里橋から眺める大千軒岳(中央)

 朝5時に家を出て、6:50、道々607号へ入る。途中で若草大曲線へ迂回し、再び道々607号へ合流し、旧道コース登山口まで27kmの林道を走った。

 <登り>7:50旧道登山口~9:30千軒平~10:05頂上<2時間15分> <下り>頂上10:35~11:25新道登山口~(林道歩き)~12:05旧道登山口<1時間30分> 周回しても、トータルで4時間15分だった。知内川コースよりはやはりだいぶ楽である。

 旧道と新道はかなり長い間歩かれていなかったので、どうなっているか心配だった。しかし、樹林帯は下草も生えていなくて快適な登山道のままだった。樹林帯を抜けると、どちらも踏み跡ははっきりしているが、背丈の低いササや草が伸びていて歩きづらかった。クマの糞は、以前通り旧道には多かったが、古いものばかりだった。新道には見当たらなかった。

 稜線花畑のこの時期の花は、ほとんど咲き切った感じで、ちょうど見ごろを迎えていた。今週末なら、少しピークを過ぎる感じだろう?

 11年ぶりの旧道コース登山口へ取り付く。ハルゼミの大合唱の中のブナを登る。葉は新緑から若葉に変わっている。

 

 旧道コース名物のお化けブナ

 

 <旧道コースに咲いていた花々>

(左上)マイヅルソウ、(右上)ユキザサ、(左下)クルマバツクバネソウ、(右下)オオサクラソウ 

 

(左上)ノウゴウイチゴ、(右上)ツバメオモト、(左下)フギレオオバキスミレ、(右下)この山特有のブドウマイマイ

 

標高800m付近からハクサンチドリが多く目に付く。久しぶりに白花も目にできた。

 

津軽海峡を挟んで岩木山も見えた。左の岬は龍飛崎?

 

 旧道コースの上部から頂上と下りに辿る新道コースの尾根を眺める

 

 千軒平下のシラネオアイの群落

 

 9:30、1時間40分で、ミヤマキンバイに覆われた千軒平に到着。

 

 千軒平のアズマギク、ミヤマキンバイ、エゾノハクサンイチゲの競演

 

 大鴨津川源頭部斜面を覆うシラネオアイ

 

 数年ぶりに目にした白花のシラネアオイ

 

 エゾノハクサンイチゲの群落

 

 登山道沿いに咲くミヤマオダマキ

 

 シラネオアイの斜面から日本海に浮かぶ松前小島と渡島大島を眺める

 

 頂上直下から歩いてきた花の稜線を眺める

 

頂上手前から眺める駒ケ岳(左奥)~横津連峰~函館山の眺め。手前左は七ツ岳。

 

10:05、2時間15分で、誰もいない頂上に到着。30分ほど休んで、新道コースから下山開始。

 

長年歩かれていないので、踏み跡はササヤ草で覆われていて、足元が見えず、歩きづらかった。早めに草刈りをしてほしい。

 

日本海の北側に見える狩場山塊(奥)と遊楽部山塊を眺めながら下る。

 

 誰にも会わないと思っていたら、一昨日、恵山で捜索本部を仕切ってくれたばかりの鎌鹿さんご一行が登ってきた。旧道コース登山口から林道を歩いて来て、こちらと反対回りで下るという。

 このあと、登山道沿いで10本ほどのタケノコを採取。

 11:25、頂上から50分で、新道コース登山口に到着。このあと、林道を下る。途中でウドの芽の部分を摘みながら下る。

 旧道登山口手前まで来たら、単独行の女性が登ってくる。こちらと反対回りで登るという。名前を聞かれたので答えたら「やっぱり!いつも本やホームページを読ませていただいて、参考にさせていただいています」という。こちらが照れくさくなるほど、感激してくださった。小樽からいらしたそうだ。時間が遅いことを気にされていたが、「日が長いときなので大丈夫ですよ。気を付けて!」と別れた。

 

 12:05、頂上から1時間30分で、旧道コース登山口へ到着。車が増えていたが、鎌鹿さんと小樽の女性の他の車のほかに札幌ナンバーの車が1台。こちらの方はここから登ったようだ。

 松前の国道に出て、矢野旅館に「松前のりだんだん弁当」のテイクアウトを電話で予約した。これから作っておきますとのことで、15分後に着いたらちょうどできたところだった。

 松前温泉は火曜日は定休日なので、吉岡温泉に入って帰路に就いた。

 矢野旅館の「松前名物のりだんだん弁当」1380円×2

 松前産天然岩海苔は、年間で1000~1500帖(1帖は10枚)しか入荷されない、地元以外ではほぼ流通していないという「幻の海苔」。色の黒さ、風味の良さ、香りの強さが特徴で、 「松前の岩海苔は格が違う」と昔から海産物問屋の中では有名なのがこの松前産天然岩海苔。海苔自体が非常に高いので、弁当も高い・・・しかし、絶品の美味しさである。

 ウドの芽の部分のきんぴらも作ってもらって、豪華な夕食。

 過去の大千軒岳の山行記録の目次


3紙の新聞に掲載される

2020年06月08日 | 登山・旅行

 一夜明けて、今朝の北海道新聞、函館新聞、朝日新聞の3紙に、昨日の捜索の記事が掲載されていた。

 3紙とも、なぜか最後に出発したC班のメンバーの写真が掲載されていた。

 北海道新聞

 

一番詳しく記載されていた函館新聞

 

朝日新聞

 TV局もHBC・HTB・UHBの3社が来ていたが、昨日や今日のニュースの扱いではなさそう。放映日が決まったら、連絡をいただけることになっている。

 佐藤晶君が行方不明になって以来、ずっと自分たちが捜索するとすれば・・・ということが頭から離れなかった。それが現実になって、捜索場所の選定、メンバーの募集、下見や偵察、実施計画の策定、そして、当日の捜索・・・発見には至らなかったことで、まだ、スッキリしない部分もあるが、自分としては、十分やりとげたという満足感が大きい。

 予想を超える人数の参加をいただき、発見できなかった悔しさよりも、参加してくださった方々への感激や感謝の気持ちの方が勝っている。


残念!思い天に届かず・・・・

2020年06月07日 | 登山・旅行

 地元だけでなく、札幌方面からも駆け付けてくれた、頼もしい30代から70代までの捜索隊メンバー29名

 天候も味方につけて、岩登り、沢登り、藪漕ぎ登山の精鋭部隊で臨んだ、登山愛好者有志による佐藤晶君の捜索活動だったが、想いは天には届かなかった。晶君も呼んでくれなかった・・・。2回も断腸していて臍より右側の大腸がない自分ではあるが、3回目の断腸の思いである。

 朝、7時に捜索本部が設置されるホテル恵風の駐車場に着いたら、すでに本部メンバーが車の誘導をしてくれて、本部テントの設営等も終わっていた。

 捜索メンバーも次々と到着、受付を済ませ、差し入れ物資の受け取りや自費で購入する弁当の受け取りなどを済ませてもらう。予想以上の報道陣の数(TV関係3社、新聞社3社)にも驚く。その取材への対応も忙しい。

 7:55には全員が揃ったので、捜索本部付きの事務局長の鎌鹿さんの司会で開会式が始まる。会の代表兼捜索隊長としての自分の挨拶・・・まずは、「弁当も怪我も自分持ち」の完全ボランティアにも関わらず、これだけの多くの方々が参加してくださったことへの感謝の言葉に始まり、今日の行動日程の説明、とにかく安全第一で行動していただきたいことを話した。これまでの経過等は、昨日までのブログを見ていただいているので、省略。

 挨拶や説明をする自分・・・目の前のTVカメラは、この画像を見るまで気付かなかった。北海道警察函館中央署のこれまでの捜索活動の担当責任者の方も駆け付けて下さった。

 

 本部メンバー17人のうちの一部しか撮ってなくて、申し訳ない。

 8:15、開会式が終わり、班ごとの顔合わせをした後、それぞれ2台ずつの車に分乗して、十三曲がり登山口まで車で移動。

 登山口手前の捜索範囲の見通せる網干場で捜索範囲の説明をした後の集合写真。

 

 報道陣のカメラを気にしながら、A班から十三曲がりコースへ取り付く。

 

 その後に続くB班と、この上の砂防ダムの上から尾根に取り付くC班。

 この後は、それぞれの班ごとの担当区域へ向かった。本部との無線のやり取りで、現在地を確認したり、班ごとの交信を行いながら捜索を行った。

 地形図に表れていない深い谷と尾根が交互に入り込み、大きな溶岩も多く、ちょっと離れると姿が見えなくなるので、お互いの姿の確認に非常に神経を使った。途中で休憩を兼ねた人数確認も、笛を吹いたり、大声を張り上げたりと、集めるのに大変だった。

 以下は、我がB班の捜索時のスナップ。我が班は4人もロープを持参してくれたが、使用する場面はなかった。ほかの班は、ロープを掛けて岩の間を登ったり、懸垂下降もしたらしい。下山後、その写真を求めたが、みなさん、写真を撮る余裕はなかったとのこと・・・残念!

この1枚だけはA班提供・・・凄い急斜面だが、それが伝わらないのが残念。

 

 11:30~12:15、見通しの良い、エゾイソツツジの咲き誇る上部斜面で太平洋を見下ろしながらの昼食タイム・・・下の本部からも双眼鏡で見えたという。

 

 昼食後、午後の捜索へ向かう。

 

 14:30、全員、無事(1名は顔に大きな擦り傷)に本部前に集合でき、解散式を行った。

 参加者からも、報道陣からも、「第2回はあるのか?」という質問を受けた。しかし、これまで捜索の入っていなかった中で、一番可能性の高いのが今回の範囲だった。ここで見つけられなかったら、あとはどこを捜せばよいのか見当すらつかない。その説明で、みなさんが納得してくださった。

 参加メンバーのほとんどは仕事を持っている現役世代で、やるとしても週末にしか集まることができない。あとは、それぞれが気になるところがあったら、個別に捜すこともやぶさかではないこと、また、間違っても自分たちが捜索される側には絶対回らないように留意することを付け加えて、我々の捜索活動はこれで終了とした。

 このあと、割引料金のホテル恵風の温泉で疲れを癒して、それぞれ帰路に就いた。

 参加された46名のみなさん、下山時まで待っていてくださった報道関係のみなさん、本当にありがとうございました。そして、お疲れ様でした!


何とか期待に応えたい・・・

2020年06月06日 | 登山・旅行

 いよいよ、登山愛好家有志による「恵山で行方不明になった佐藤晶君の捜索」が明日に迫った。今日の早朝にも必要なことがあり、捜索隊メンバーには、最終連絡のメールも入れた。

 今日の北海道新聞にも、記者からの「捜索の進展を願って」という、我々に期待を寄せたコラムが掲載されていた。

 

 「新日本百名山・恵山を登る会」の事務局所在地である鎌鹿さんのお店「山と渓谷の店 自然倶楽部」には、上掲のような、市民からの義援金や支援物資が届いているという・・・みなさんの期待の大きさをひしひしと感じる。

 こちらも知人や友人から、「お手伝いはできないが、気を付けて、頑張ってください」と言うような電話やメールもたくさんいただいている。

 登山愛好家ならではの視点と経験を生かした捜索活動への期待も大きい。参加する側も、「弁当も怪我も自分持ち」の完全ボランティアにも関わらず、「なんとか見つけ出してあげたい」という強い思いで応募している。

 だだ、残念なのは、報道関係から、「一昨日函館市内で発生した放火殺人未遂事件の方へ張り付かなければならないので、取材には行けなくなりました」とか、「別の記者を派遣します」という電話も入っている。

 いずれにしても、捜索隊を仕切る自分としては、なんと言っても捜索メンバーの安全第一である。無理せず、急がず、慎重に、入念に・・・をお願いして、明日のこのブログには「佐藤君発見!」の報をアップしたいものである。


<恵山捜索>捜索方法と捜索の視点・留意点を考える

2020年06月05日 | 登山・旅行

 捜索隊メンバーには、このブログを毎日チェックしていただくようお願いしている。共通理解を深めるためにも、これまでの下見や偵察等の結果を踏まえて、今回の捜索範囲での捜索方法・捜索の視点・留意点等を、自分なりに考えてみた。

◎捜索範囲をこの東斜面の樹林帯に考えたわけ

 行方不明の第1報を知ったときには、登山道(権現台コース)の西側(噴火口側)の火山地形へ迷い込んで、どこかで足を滑らせて滑落か転落をして動けなくなっているのだろうと思った。これは、誰しも同じであろう。西側の火山地形は樹木も生えていないので、目視も利くし、ましてや、ヘリコプターからは簡単に見つかるはずだと思った。

 しかし、それでも見つからないので、さらに火口原や外輪山一帯の広範囲へと捜索範囲を広げ、特に5/18・19には自衛隊を投入しての人海戦術でも見つからなかった。

 天候に恵まれた5/20の空陸からの捜索の様子を火口原駐車場から見ていたが、これまでの3回もの斜面を舐めるようなヘリからの捜索でも見つからないということは、ヘリから見えない樹林帯の中だろうと考えた。

 その中で、もっとも可能性の高いのは、権現台コースの東側斜面だろうと考えた。函館中央警察署の捜索担当責任者に確かめたら、我々が考えた東斜面の樹林帯は、ほとんど捜索の手が入っていないという。

 そこで、まずは、5/31に、権現台コースから東側へ迷い込む可能性を考えて、そちらの偵察を行った。 その結果、権現台コースの東側斜面の上の方は、樹林も生えていないし、斜度も緩いし、歩こうと思えばどこでも歩けることが分かった。

 ましてや、この山に初めて登り、登山経験のほとんどない晶君が、登山道の上の方からずっと東下に見えるホテル恵風の駐車場やその北側に見える広大な網干場を、スタートした駐車場と考える可能性がないわけではない。実際に、何度も登っている妻でも、同じように考えるという。

 お姉さんたちの「一つ目のカーブで姿が見えなくなった」「晶君がショートカットして下りれそうと話していた」という情報もある。普通では考えられないが、下に見えるホテル恵風の駐車場を見てそちらへ向かった可能性がないわけではない。

◎今回の捜索範囲を水無沢川(南側)~十三曲がりコース(北側)の間に限定したたわけ

 水無沢川は、画像の左上に見える崩落崖から下へ続く深い沢である。5/31の偵察で、この上の崩落崖の左横(下から見て)の岩の切れ間の中は、とても急で大きな岩がゴロゴロ詰まっていて、我々でもとても下りれることろではないと判断した。ましてや、晶君は下りようとは思わないだろう。

 そうなると、崖の南側(画像左上)は画像でも分かるように稜線上に岩壁が連なっているので、そこから下へ下りることは不可能と思われる。なお、この水無沢川の中に落ちているとすれば、広い沢なので、ヘリからもはっきり見えるはずである。縁の灌木に引っかかっていれば別であるが・・・。

 十三曲がりコースは、画像右側の沢の右斜面である。権現台コースの東側へ迷い込むとすれば、十三曲がりコースの横の沢に入り込む可能性と、十三曲がりコースを下りる可能性がある。

 以上の視点から、捜索人数にも限界があるので、範囲を、水無沢川~十三曲がりコースの間に限定した。

◎捜索担当区分及び各班ごとの捜索の視点と留意点

 当初は、この範囲を下から3等分して、捜索しようと考えた、しかし、等高線が詰まっているc200~250の間の地形が気になって、6/3に偵察を行った。その結果、この部分は、抜けることが不可能な屏風状の岩壁が連なっていることが判明。

 そこで、当初の下から3等分の計画は無理となったので、トップ画像のような割り当てとなった。

 どの班も、核心部はこのA・B班とC班の境目の屏風状に連なる岩崖部分の上下であろう。ここに落ちていたり、引っかかっていたりしている可能性もある・・・。捜索の面からしても、一番危険な箇所である。それぞれの班にロッククライミングの経験者を配していて、各班2本のザイルは持参するが、無理は絶対禁物である!

<班ごとの捜索方法と捜索の視点と留意点>

<A班>(リーダーは5/31の偵察に参加しているmyuさん~この班は平均年齢が一番若い)

 十三曲がりコースを登り、岬展望台分岐付近から、鹿道を辿り、南側へ樹林帯の上を水無沢川まで進み、沢の縁を尾根沿いに下りながら捜し、下の岩崖の上をB班との境目付近まで横に進みながらくまなく捜し、その後は、その上の斜面全体ということになるだろう・・・?

<B班>(リーダーは、不詳私)

 十三曲がりコースを登り、途中からその下の沢の源頭部(崩落崖の上)へ下りて、まず、そこから沢型の上部の捜索をする。その後、沢の源頭部を巻くようにして、下の岩崖の上まで下り、A班との境目付近まで南側へ進みながらくまなく捜す。その後は、その上斜面全体ということになるだろう・・・? 十三曲がりコースと沢との間の斜面は、下山時に入る予定である。

<C班>(リーダーは、6/3の偵察に参加している龍さん)

 十三曲がりコース登山口から、砂防ダムの上を越えて、6/3に歩いた沢の右岸尾根を岩崖の下まで登る。そこから、岩崖の根元を辿りながら、根元や途中の引っかかっている可能性のあるところをくまなく捜す。南進して水無沢川沿いの砂防ダム工事用道路に出たら、その下の斜面をということになるだろう・・・?この範囲の下の樹林帯は、屏風状の岩崖を下りて来ることは無理でも、十三曲がりコースを下りてきて、森林浴コースや林道から迷い込んでいる可能性がある。

 なんとか、今回の捜索で、手がかりだけでも見つけ出したいものである。それらを見つけた場合の対応は、すでに考えているが、その時点で、無線で捜索本部へ連絡し、本部の鎌鹿さんと自分が打ち合わせをした上で、各班への連絡となるだろう。

 捜索メンバーのみなさん、よろしくお願いいたします! これを読みになった上で、何かありましたら、ご連絡下さい。

 なお、鎌鹿さんのところへ、市民からの義援金や支援物等が届いているという。ありがたいことである。