「ふるさとの、山に向ひて言うことなし、ふるさとの、山はありがたきかな」、
石川啄木ではありませんが、脳裡に刻み込まれたふるさとの山並み、姿、稜線、色合い、漂う香り、
ふるさとの山くらい郷愁に駆られ、なつかしく、やさしく、ありがたく、父にも母にも似た想いを抱かされるものはありませんね。
国府駅に降り立った帰省の頃、小高いプラットホームから見える南の須留岐山は、国府の郷をやさしく両手を広げ、包み込む母のように、西の蘇武や妙見の峰々は、雪をかぶった厳しい父のように、「お帰りなさい」と迎えてくれました。
車の時代、ふるさとに近づく宿南の堤防道路、すっくと立つ進美寺の峰を真正面に見て車を急ぐとき、『ああ、家に帰り着いたな~』とつくづく感じるものでした。
それくらい、山の姿は生まれ育ったふるさとの想いを込めたとても大切なものでした。
川の流れやまわりの姿は、30年も40年も経ちますと工事やなんやで結構姿を変えますね。
なので、浦島太郎でふるさとに帰るとしたならば、昔の姿は町並みにも川にも求めることは無理ですね。
でも、山はそうはまいりませんね。遠くから眺める姿はまず変わりませんね。不動の姿がありますね。
人は皆、その不動の父にも似た、どっしりした頼り甲斐のあることに魅せられるのですね、
私はそんな思いです。
くどくど何を云いたいかと申すのは、今の政治家、政治の世界、何にも動じない山のような、どっしりとした頼り甲斐のある、山や父のような思いが抱けませんね。
国の姿をどうしたいのか、そんな議論がなさ過ぎますね。外交政策一つを見ても、どしっとした山のような姿が見えません。
夫婦別姓だの、永住外国人への地方参政権付与だの、そんなことしてふるさとの永き善き習わしをぐちゃくちゃにするような事して、ふるさとの父なる山はどう思うかな、
何かもっと大切な、国民の心を一つに纏める話が先じゃないのかな、
山に向ひて恥ずかしいことないのかな、
このありがたき峰々に囲まれた、素晴らしい国を更にどうして磨かないのかな、
東西南北山の姿を拝んでいつも、思いは素晴らしいふるさと思うこと、素晴らしいふるさと集まる、素晴らしい日本思うこと、そんな思いをいたします。