ツアー3日目は、浦島悦子さんの案内で、名護市東海岸の二見、久志、汀間の各区を案内していただきました。
最初は二見の「二見情話」の歌碑の前で、この歌が作られた歴史を伺いました。
沖縄中南部の激戦で生き残り、米軍に拘束された住民たちは、北部にトラックや上陸用舟艇で運ばれました。
「二見情話」を作られた、首里出身の照屋朝敏さんらは、辺野古崎に上陸し、険しい坂道を上り下りして二見にたどり着いたとのこと。
収容所での衛生状態は悪く、食べ物もなく多くの方が栄養失調やマラリアで亡くなったそうです。
「収容所は戦場よりひどかった」という証言もあるそうです。
二見の人々は、照屋さんたちを温かく向かい入れ、食べ物を分け与えたりして、救いの手を差し伸べました。
半年の収容生活ののち、故郷にかえれることになり、収容されていた方々の要請で、当時の二見村長の照屋さんが作ったのが
、この「二見情話」です。照屋さんは「この歌は平和への願いと二見の人々の命からなる感謝を込めたメッセージ」」と述べておられたそうです。
二見情話の歌碑の前でお話しする浦島悦子さん
続いて久志区にある、伊江村民収容所跡記念碑を訪れました。久志の水道浄水場の近くにあり、案内がないと行けない感じでした。
1945年4月16日、米軍は伊江島に上陸。21日には伊江島を占領しました。日本軍は住民を巻き込んで戦闘し、
住民約1500人が死亡したと推定されています。米軍は渡嘉敷島、慶良間島と大浦崎収容地区に住民を送りました。
大浦崎収容所には3200人が送られ、1947年3月まで収容所での暮らしを余儀なくされました。
伊江村民はその後、大浦崎から久志に移動させられました。 食料も乏しく、マラリアで亡くなる方も多かったそうです。
この碑は1997年に建立されましたが、2017年、収容された村民が暮らした跡地に移転されたそうです。
うっそうとした木々から、収容された村民の声が聞こえてくるようでした
伊江島村民収容所記念碑の前で
その後、汀間に移動し、御嶽の由来や、地域の行事などについてお話を聞き、散策を終えました。
沖縄戦、そしてその後を生き抜いた人々の思いが、地域のなかにしっかりと刻まれているのを改めて感じました。
☆じゅごん
最初は二見の「二見情話」の歌碑の前で、この歌が作られた歴史を伺いました。
沖縄中南部の激戦で生き残り、米軍に拘束された住民たちは、北部にトラックや上陸用舟艇で運ばれました。
「二見情話」を作られた、首里出身の照屋朝敏さんらは、辺野古崎に上陸し、険しい坂道を上り下りして二見にたどり着いたとのこと。
収容所での衛生状態は悪く、食べ物もなく多くの方が栄養失調やマラリアで亡くなったそうです。
「収容所は戦場よりひどかった」という証言もあるそうです。
二見の人々は、照屋さんたちを温かく向かい入れ、食べ物を分け与えたりして、救いの手を差し伸べました。
半年の収容生活ののち、故郷にかえれることになり、収容されていた方々の要請で、当時の二見村長の照屋さんが作ったのが
、この「二見情話」です。照屋さんは「この歌は平和への願いと二見の人々の命からなる感謝を込めたメッセージ」」と述べておられたそうです。
二見情話の歌碑の前でお話しする浦島悦子さん
続いて久志区にある、伊江村民収容所跡記念碑を訪れました。久志の水道浄水場の近くにあり、案内がないと行けない感じでした。
1945年4月16日、米軍は伊江島に上陸。21日には伊江島を占領しました。日本軍は住民を巻き込んで戦闘し、
住民約1500人が死亡したと推定されています。米軍は渡嘉敷島、慶良間島と大浦崎収容地区に住民を送りました。
大浦崎収容所には3200人が送られ、1947年3月まで収容所での暮らしを余儀なくされました。
伊江村民はその後、大浦崎から久志に移動させられました。 食料も乏しく、マラリアで亡くなる方も多かったそうです。
この碑は1997年に建立されましたが、2017年、収容された村民が暮らした跡地に移転されたそうです。
うっそうとした木々から、収容された村民の声が聞こえてくるようでした
伊江島村民収容所記念碑の前で
その後、汀間に移動し、御嶽の由来や、地域の行事などについてお話を聞き、散策を終えました。
沖縄戦、そしてその後を生き抜いた人々の思いが、地域のなかにしっかりと刻まれているのを改めて感じました。
☆じゅごん