下記の新聞のネット配信記事にもあるように、例の大阪市の市政改革プラン素案へのパブリックコメント、1万9千件以上の意見・要望などが来たようですね。しかもその大半がこの素案の中身に反対、あるいは現状維持を求めるものだとか。
いかにこの数か月の大阪市政が、市長選挙の投票結果に反映された「民意」「だけ」は尊重していても、それ以外の「民意」を無視してきたかがわかりますね。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120601-OYT1T00157.htm
さて、話は変わりますが。今年の1月に行われた教育基本条例制定反対の集会でお目にかかった前田佐知子さん(宇宙科学研究者、元京都女子大学教授)から、下記2つのブログ記事をご紹介いただきました。こちらであらためて、紹介させていただきます。
http://peacephilosophy.blogspot.ca/2012/05/part-ii.html
http://peacephilosophy.blogspot.ca/2011/09/blog-post_16.html
どちらも、沖縄・八重山地区の教科書採択をめぐる諸問題について書かれたものです。(前田さん、2つの記事、ご紹介いただきありがとうございました。)
ここにある教科書採択の動きは、今後、大阪市内でも起きてくるかもしれない問題です。また、すでに東大阪市では、下記の新聞のネット配信記事にあるように、育鵬社の中学校公民教科書が採択されています。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110727/edc11072716000004-n1.htm
人権博物館やピースおおさかの展示などへの橋下市長らの批判、補助金カット、あるいは新しい博物館建設の動きなどにもみられるように、これまでの日本近現代史の事実認識や人権理解などに対する攻撃が、この大阪でも強まってきています。
そういう動きはもしかしたら、政府の動きに対して「もの言わぬ国民」をもっと増やしたい、政府が国民に対してどんな理不尽な改革を行っても「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ」ことを求めたい、そういう発想から生まれてきているのではないか。
あるいは、過去の自分達の失敗、過ちを隠蔽し、いかにも自分たちが常に正しいことだけをしてきたかのように装いたい。そういう発想から芽生えてきているのではないのか。
そんなことを、前田さんの書かれたものを読んで、大阪のここ最近の様子と関連づけて、私は思いました。
そういえば、「過去の自分達の失敗を隠蔽し」ということでいえば、多くの子どもの事故・事件発生に際しての学校・教育行政の対応にもあてはまること。今日・あすと神戸で全国学校事故・事件を語る会の大集会(全国集会)があって、今年もまた私は出席します(詳しくは下記参照)。
http://tsuyokun.blog.ocn.ne.jp/gakkoujikojiken/2012/05/post_e0a2.html
起きてしまった悲しい事件・事故、不幸な出来事に対して、いかにその事実に誠実に向き合い、きちんとした検証を行って、被害を受けた方への補償や今後の再発防止などに全力を挙げていくのか。
また、起きてしまった悲しい事件・事故や不幸な出来事を「隠す」「なかったことにする」のではなくて、その事実を認めたうえで「次」をどうつくるのか。
こういった形での「知的な誠実さ」が今、さまざまな分野で求められているのではないか。
私はこの頃、そのように感じています。そして当然ですが、このことは去年の東京電力福島第一原発の事故に関しても、東日本大震災に関しても言えることだと思うのですが。