できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

橿原市教委の対応に思うこと

2013-10-13 11:39:46 | いま・むかし
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/131012/crm13101210060003-n1.htm
(「公平ないじめ調査委」は“ウソ” 中1女子自殺で橿原市教委は「訴訟を想定」 元委員が暴露:MSN産経新聞ニュース、2013年10月12日付け)

今年1月に出た大津市の調査委報告書でもそういう事後対応の経過が書かれていましたが、学校・教委が子どもが亡くなる事案が生じたときに、訴訟を想定して弁護士などに相談しながら動くことは、これまでも多々あったと思います。それがこの奈良・橿原の件では、調査委員会の構成や運営の面でも現れた、ということですね。だから、今まで遺族の側が疑問を感じてきたことが、「やっぱりそうだったのか」という形で表面化した、ともいえるわけです。
調査委員会を立ち上げるときに「単に知る権利の保障ではなくて、遺族の参加・参画が大事」とこのところ私が言うのは、このあたりの疑念を払拭しないことには、調査それ自体への信頼性が保てないだろう・・・ということあっての話です。
また、子どもが亡くなる事案が生じたときに「緊急支援」と称して臨床心理士らのチームが学校に入ることも、こうした弁護士と学校・教委の事後対応に関する方針のすりあわせとリンクしながら行われてきたのではなかったかと。
さらに、こうした子どもが亡くなる事案が生じたときの学校・教委と弁護士・臨床心理士ら専門家の連携は、「一日も早く、悲しい事件のことは忘れて、もとのような学校に戻したい」という他の子どもの保護者や地域の住民らに支持されてきたのではないかとも思います。そしてきっと、私立学校の場合は、このような学校と弁護士・臨床心理士、保護者、地域の住民らのリンクに、卒業生などの思惑も加わるのでしょう。
しかし遺族の立場にしてみれば、「一日も早く、悲しい事件のことは忘れて、もとのような学校にもどしたい」などという関係者の思いや、それにもとづく対応そのものが、「どうしょうもなく、ひどいしうち」なのです。「うちの子どもが生きていたあの日になんて、もどれるわけ、ないじゃないか!」と思うわけです。
だから、ここのところの遺族の心情などに思いが至らない専門家が、いくら亡くなった子どもの死に至る経過を明らかにする調査委員会をつくっても、遺族ときっちりと折り合っていくことは難しい。また、学会推薦や業界団体推薦であろうが、ここがわからない専門家であれば、十分に調査委員会が機能を発揮することはできないだろう。そういう点についての考慮・配慮が、法律ができて、国の基本方針ができたとしても、まだまだ不足しているのではないか・・・。
そういう状況のなかで唯一、できることは、亡くなった子どもの名誉を守りながら、その子どもの死に至る経過を検証して、遺族、学校、教委、他の保護者、地域住民、専門家等々、関係する人々がどのように再出発をしていくのか。それを共にさぐっていくという作業ではないかと。事実経過の検証作業がなぜ大事なのかといえば、こういうことなのではないか・・・。
というような趣旨で、昨日、奈良・橿原の件を追いかけてきた某新聞社の方に、いじめ防止対策基本法に関する国の基本方針を読んだ上でのコメントをしておきました。
(以上は今日、フェイスブックに書き込んだことの転載です)

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「いじめ防止対策推進法」は... | トップ | こういう場で市長がほんとう... »
最新の画像もっと見る

いま・むかし」カテゴリの最新記事