もうひとつのブログのほうにも書いたとおり、今、本業の大学での仕事(例えばゼミ学生の卒論指導や授業準備など)に追われていて、こちらのブログ更新のほうにまで手が回らない状態です。
ですから、市長選挙で新市長が誕生したあと、今後の大阪市の子ども施策・青少年施策などについてはいろいろ言いたいことがあるのですが、とりあえず、まとまったコメントは卒論提出期限が終わってから、ということにします。
しかし、授業準備などで参考にしているような文献を読んでいて気づくこともありますし、面白かった文章などを紹介したいな、と思うこともあります。しばらくの間は、読んでて面白かった文献からの引用・参照だけで更新を続けることにします。
その第一弾として、今日は湯浅誠『貧困襲来』(発行:山吹書店、発売:JRC、2007年)のなかから、まずはいくつか、引用をしておきます。カッコ内はこの本のページ数です。
まずは一部をしめつける。次にそれを根拠に他の部分もしめつける。それを「不公平感の解消」「格差解消」と言ってみせる。低いほうに合わせる「低位平準」は、この間の政府の常套手段だ。(中略)底のほうでのわずかな違い(格差!)にだけ注目させて「あいつらはずるい」「もらいすぎ」と言わせ、上層との格差拡大から目を背けさせる。上層の話になると、とたんに「上がちゃんと成長しないと下も大変なんですよ」と脅しにかかる。ほとんどサギだ。(p.109)
そもそも、財源論自体にアヤシイところがある。社会保障全体のパイ(予算)を決めるのは政治家と官僚たちだ。社会保障給付の費用はこうやって調達する、財源はここからは持ってこない、と自分たちで決めておいて、そして「足りない」という。おかしな話だ。(p.118)
財源論は、強い者がお金を使うときには出てこない。弱い者が使うときだけ「そんなお金、どこにあるんだ」と出てくる。これは、身勝手な父親が子どものまっとうな要求を退けるときに使う手だ。子どもにガマンさせといて、父親は酒にパチンコに好き放題。二言目には「誰が稼いできてると思ってんだ」「おれがいっぱい稼げば、おまえの暮らしも楽になるんだぞ」と脅したりなだめたり。これをダメ父親的財源論と言う。(p.118~119)
財源論は、お金の計算だから客観的に見える。どこかで出そうとすれば、その分どこからか持ってこないといけない。その理屈は出し渋りのためにはいつも格好の材料を提供する。(中略)/逆から言えば、財源論が出てくるときは、それ以外にまともな反対理由がない、ということである。まともに反対できないとき、何とかの一つ覚えのように財源論が持ち出される。だから、財源論が持ち出されたときは、私たちは「ああ、まともな反対理由がないんだな」と解釈すべきなのである。(p.122。原文は/のところで段落変更)
ひとまず、今日のところは、このへんで。
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