できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

学校や子どもの問題を「ネタ」的に消費せず、「私たちの問題」として受け止めること

2020-02-25 10:06:28 | 受験・学校

先ほどは今朝のテレビの情報番組における神戸の教員間いじめ問題の扱いについて、ひとつ、ブログ記事を書きました。そこで最後のほうに書いた内容をふまえながら、あらためて気付いたことを書いておきます。

私は神戸の教員間いじめの問題に限らず、いじめの重大事態(自死や長期不登校のケース)、「指導死」と呼ばれる子どもの自死、そして学校で子どもが亡くなったり、重い後遺症を負うような重大事故・事件・災害などの問題に研究者として、未然防止に関する教職員・教育行政職員研修の場などで、あるいは調査委員会運営や再発防止策づくり、遺族や被害者家族へのサポートなどの場面で、多々、かかわってきました。(なお、実は保育事故の防止等の作業にも私、かかわっているのですが、趣旨は学校事故・事件や災害とも同じなので、以下の内容は保育の話も含めて考えてください。)

マスコミ報道やSNSなどを通じてのみ、こうした学校での事故・事件・災害に触れる方にしてみると、たしかにひとつひとつのケースに報道等を通じて触れるたびに、「加害者はけしからん!」等の気分が高まってきたり、あるいは「学校や教育行政はなにをしていたのか!」とお怒りの口調になったりするのでしょう。また、そういう「気分・口調」を高める方向で報道等がなされる場合もあります。

そして、そういうマスコミ報道やSNSを通じた論調と、人々の「気分・口調」の相互作用のなかで、「勧善懲悪の劇場」ができあがってくるのではないかと。また、その「勧善懲悪の劇場」のなかで、「悪者」を誰かが「成敗」してくれて、カタルシスをえる。そういう人々も多いのかもしれません。また、そのカタルシスをえられるような、そんな報道を求めている人々も多いのかもしれません。

ついでにいうと、教育行政からの取り組み(処分や再発防止策づくり等々)も、その「カタルシスをえたい人々」に向けられていて、「実際にその取り組み、再発防止等に効果はあるのか?」と思うようなものも含まれているかもしれませんね。

なにしろ、私のように現実にこれら学校事故・事件・災害の「事後対応」や「未然防止」の諸場面に、それこそ「実務的」な場面でかかわっておりますと…。

上記のような「勧善懲悪の劇場」がつくられて、「悪者」を誰かが「成敗」してカタルシスをえるような流れって、「それって、事故・事件・災害にまつわる人々の嘆き、哀しみ、苦しみを『ネタ』的に消費する行為ではないのか?」と思えてならないのです。

私が日常的にかかわっている学校事故・事件・災害の「現場」で生きている人々は、どの人々も「生身」の人間です。喜びも悲しみも、苦しみも楽しみも、いいところも悪いところも、それ相応に抱えながら、日々を精一杯生きてきた人たちです。また、これから先も、大きな苦しみや悲しみを抱えながら、それでもなお、精一杯、ここから先の人生を生きていかなければいけない人たちばかりです。それは「被害」にあった人々だけでなく、周囲に居合わせた人々も、そして「加害」に及んだ人々も、事後対応にかかわる人々も、みな同様です。どの立場の人々も、私と同じ「人間」です。

もっというと…。私の勤務する大学(非常勤講師先を含む)で学んだ人たちや、私の受けた研修に出ていた人たちが、あるときは「加害」教員になり、あるときは「被害」教員になったり、周囲に居合わせたり、事後対応にかかわる人々になるかもしれません。そういう私のかかわってきた人々が、学校現場や教育行政の現場で働き、何かを問われる立場にたたされているわけです。

また、すでに調査委員会運営にかかわったり、重大事故・事件や災害の未然防止・再発防止策づくりにも動いていたりする以上、私もまた、教育行政の行う施策づくりにかかわっています。そうすると、なにかあったときに私もまた、誰かからなにか問われるべきものがあるわけです。

あるいは私自身だって娘が学校に通っている以上、どこかの事故・事件・災害などで「被害にあった子ども」や、「周囲に居合わせた子ども」の保護者になるかもしれないし、場合によれば「加害に及んだ子ども」の保護者になるかもしれません。被害者家族や遺族の直面する諸課題もまた、私には無縁の課題ではありません。

さらに、私自身も大学教員のはしくれです。大学で私自身が学生を深く傷つけるかもしれないし、死なせてしまうかもしれない。同時に、大学でなにかの事故・事件・災害にまきこまれて私も亡くなったり、深く傷つくかもしれない。そして、起きてほしくはないですが、大学でなにか事故・事件・災害が発生した場合、私が事後対応の責任者として対応にあたるかもしれません。

このように考えると、私にとって、重大事故・事件や災害発生後に人々から学校や教育行政に向けられた批判・非難のことばは、そのまま、自分(と自分のまわりにいる身近な人々)に対する批判・非難のことばとしても、どこかで突き刺さるわけです。けっして「自分自身のこと」(加えて、自分のまわりにいる身近な人々)を素通りにしたまま、誰かを「悪者」にして「成敗」すればそれでいい、なんて話にはできないんです。「頼むから、『ネタ』的に消費するような話にはしないでくれ」と、率直に思います。

ほんとうに、この学校での重大事故・事件や災害に関する話は、さまざまな立場の人々の生活の再建に向けての七転八倒の苦しみ、哀しみ、葛藤、悩み、嘆き、怒り等々、いろんな思いのつまった話でもあるわけです。「ネタ」的な消費を通じて、粗末に扱われてはならない話のはずです。

「ひとりひとりの暮らしの『再建』をどうみんなで支えていくのか?」とか、「この人たちの苦しみや悲しみをわかちあいながら、共にどのようにこの社会のなかで生きていくのか?」とか。そういう切り口から、今後は学校での重大事故・事件や災害にかかわる話を、マスコミ報道を通じてしていただきたい。また、SNS上で議論をする人々も、どうか、そういう切り口から情報発信をしてほしい。そのことを、私としては切に願います。

最後に一言。この問題を「ネタ」的に消費するのではなく、「これはもしかしたら、私だってそうなっていたかもしれない」問題として、あるいは「これは私がなにか、責任を引き受けて考えていかなければならない」と受け止める人々が増えれば増えるほど、学校(保育)事故・事件や災害にまつわる諸問題については、少しずつでもいい方向を向いていくと思います。そのためにもどうか、「ネタ」的な消費で話をするのは、もうそろそろ、終わっていただきたい。それを、あらゆる方面に向けて発信していきたいと思います。

 

 

 


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