今日は社友クラブの「歩こう会」が企画した袋田ジオサイトを巡ってきた。袋田は、日本三大名瀑の一つの「袋田の滝」で有名であるが、ジオサイトとしても色々観るべきものがあり、茨城県北ジオパークの一つに指定されている。
袋田の滝一帯は1700万年前は陸上にあり、現在の栃木県東部辺りにあった火山により火山灰が降り火砕流にたびたび襲われていた。この火山活動が落ち着くと安定し網状河川が発達し礫や砂が運ばれ堆積した。その後、海面が上昇し(温暖化や大地の沈降)、このあたりは海に没した。1500万年前には海底で火山活動が起こった。水中に噴出したマグマが水と接触し急冷され破砕して出来た水中火成岩(ハイアロクラスタイト)ができる。その上に砂岩や凝灰岩が堆積していった。その後800万年位になってプレートの移動によって陸地化していった。袋田の滝やその周辺の山々は水中火成岩からなり、隆起した後浸食により硬い岩盤が残って現在の地形を形成している。袋田の滝は全てハイドロクラスタイトの上を流れている。
10:15集合、10:30町営第2駐車場発の予定だったが、それより早く10:25出発。最初に、川の中に頭を出している「河童の休み岩」に行く。 途中、桜田門外の変での井伊大老襲撃の実行責任者であった「関鉄之助」の歌碑を右手に見て進む。 河童の休み石は、この地域が陸地であった1700万年前の土石流によって石が溜まったところで、この石が固いので削られずに川床から顔を出しているものである。上流から流れてきた石ではなく、川底に根をはやしているものである。
次に、「暴れ川の落し物」のところに向かうが、その途中にある「龍泰院」に寄った。ここは、熊野山と号す曹洞宗の禅寺で、天文2年(1533)佐竹氏によって創建された(一説には明応7年(1498)4月の創立とも)。元禄8年(1695)には徳川光圀公(元禄3年(1690)藩主を綱條に譲っている)が立寄っている。現在の大本堂は安永5年(1776)建立されているので236年経っている。
そこから、「暴れ川の落し物」といわれる礫岩の観察できる崖に向かう。この崖もこの地帯が海に沈む前の1700万年前の陸地であったときに土石流や強い川の流れにより運ばれてきた礫岩である。表面は剥離で危険なためか、表面には金網が張ってあった。
そこから引き返し、袋田の滝に向かう。途中広い駐車場でめいめい持参の昼食を摂る。小生は、おにぎり2個と鰯の旨煮缶詰とお湯を沸かしての味噌汁を造った。食後には再びお湯を沸かしてコーヒーを淹れ飲む。アップルパイを持参していったが、時間の都合とお腹一杯になったので、それは食べなかった。
袋田の滝に入り、第一観爆台と第二観爆台から滝を眺め、集合写真を撮った。袋田の滝は今年これで3回目である。幅73m、高さ120mで四段になって落下することから四度の滝とも呼ばれている。水中火山岩から成っていることを思わせる、ごつごつした硬そうに見える岩肌である。
吊り橋を渡って滝川の左岸に沿って歩く。途中振り返って、袋田の滝の北側に絶壁となって聳える屏風岩を眺める。これも水中火山岩からなっている。
実は、この北側にある生瀬富士に登って東に稜線を通ると、この屏風岩の上に出る。ここから、眼下に眺める袋田の滝も全容を見下ろすことができてすばらしい。でも、高所恐怖症にはちょっとばかりきつい。
滝川に沿って歩くと対岸である右岸に傾斜地層が見える。上流側(東側)が下がり、下流側(西側)が上がった傾斜地層である。実は、この付近に斜交層理が見える地層があるのだが、見つけられなかった。やはり、団体で歩くとどんどん歩いていくのでじっくり留まって観察することなどできない。特に、興味のない人々の集まりでは難しい。
そこから少し下流に下り、橋を通って対岸に渡りさらに下流に下ると、「国寿石大子硯」の工房「岱山」(佐藤岱山氏代表)があり、そこに立ち寄った。これは、黒色粘板岩の硯で黄銅鉱の鋒鋩をもつ名硯といわれている。古くは水戸2代藩主徳川光圀公の時代から知られており、この硯石の原石を守るために、これが産出する大子町小久慈にある槐沢(さいかちざわ)を御留山にして保護した。9代藩主徳川斉昭が地名の小久慈の名をとって国寿(硯)と命名したという。高価なものらしい。工房と展示品を見せて戴いた後、駐車場に戻った。
民家の庭や道端には色々の花が咲いていて目を楽しませてくれた。 この時期、花の種類も多く、何枚か写真を撮った。
14:27駐車場に戻り、次回の予定などの連絡があり解散。傍の蕎麦屋に入る人も何人かいたようだったが、小生は、14:38駐車場を経って往路を引き返し、15:53自宅に無事到着した。
本日の6月13日を「はやぶさの日」と日本記念日協会が認定した。小惑星探査機はやさが2010年6月13日地球に帰還(2003年5月9日打ち上げ)した偉業をたたえるものである。