我々人間の主権主義の「民主主義」は、その要として「基本的人権」を謡っている。
この「基本的人権とは、「自由と平等」に裏打ちされた「人権」の行使である。
そしてこの「自由と平等」は、「自由と平等」無きを持って、真の「自由と平等」が醸し出される。
我々人間には、誰一人として自分と同じ相手がいない。
そういう点で、自分は特別な存在として存在している。
そしてこの「特別」に存在している自分ではあるが、完全なものではない。長所は持っているものの、半分ばかりは短所を所有している。
こうした「長所と短所」合わせ持ち、それを社会の中で生きて行こうとするなら、どうしても自分の持っている長所を、相手ての短所に役立てていかなければならないし、反対に自分の短所は、相手の持っている長所の手助けを得なければならない。
言ってみれば、相互に短所で相手の長所で伴って貰いしていく役割が必要になる。
「男女平等」にしても、そこに個々に「男女」別々の立場に立って「男汝平等」くると、「男の役割」と「女の役割」が消されてしまう事になる。
現在言われている「男児同権」は、こうして「男の役割」と「女の役割」を消し去った上でのものに「男女同権」とするのを「基本的人権」にしようといしているようなものでだ。
しかし「男女」双方にとっても「長所と短所」を併せ持つ。併せ持つならば、相手の「長所」取り入れて修復し、相手が短所を持っているなら「自分の長所」役立ててもらうという事が、本当の「自由人権」を受け入れられる事となる。