北朝鮮軍事行動、回避は可能=「悲惨な日になる」警告も―トランプ米大統領
先に「作法の心」を投稿したが、ここで言った「作法」とは、「礼儀作法」をさす。一般的には、この言葉の表現や言葉使いから、他のものに対するものと受け取られがちになっている。
しかしこの「礼儀作法」の正しく意味するところには、他はない。
ではこの「礼儀作法」は誰に対してのものかというと、己自身、自分に対して行うべき「礼儀作法」を意味している。
他に対し人に対するという「礼儀作法」にしても、そこに心が籠ったものでないならば、それは「礼儀作法」とはならない。誤魔化しのものでしかない。
真に「礼儀作法」を行おうとするなら、まず先に「自分が自分に対して、正しき「礼儀作法」を行う必要がある。自分自身に対してすら「礼儀作法」も行へないものには、人間としての資格すらあり得ない。
だがこの真の「礼儀作法の心」は、教育では得られない。よく言われるようになった「道徳教育の必須化」でも得られない。
それは教育というものが、教養を積むものにしかなっていないことにある。
「礼儀作法の心」は教養でなく、「得心」なのである。