青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

ゲームと演技

2008年08月13日 | 人生設計

今世間は、五輪、オリンピックに沸きかえっている。また高校野球にも沸きかえっている。そうしたスポーツに沸き返る一方、テレビなどではドラマやバラエティ番組が花盛りである。
こうしたスポーツなどのゲームと、ドラマや演劇などの演技というものが、私達の「人生」に重要な要素を秘めているのだろうか、などと考えてしまう。
ゲームには今日スポーツだけに限らず「マネーゲーム」というものもある。「投機ゲーム」であるし、「仮想ゲーム」である。それは「俺おれサギ」とか「振れ込みサギ」とかも、こうしたゲーム性を持っている。
一方「演技」となると、これは「フィ
クション」即ち「作り話であるし、「やらせ」られたものであり、且つ「捏造」されたものであるという事ができる。

人生というものは、このようなゲーム性と演技性とを持ったものであるものなのだろうか。
確かに私たちが生きる時には、一期一会とも言うべき切磋琢磨な瞬間瞬間の連続の状態にある。それはゲームと良く似ている。しかしこの切磋琢磨は、勝敗に拘ってはいられない重みあるものを持つ。それは農作物を育成していて、自然災害に合うやら天候不順に合うやらして、望み通りにいかないことから思うとよい。
この事は演技性についても言える。どんなに真に迫った演技を演じられても、それを実際の生活とか社会では生かせないものでしかない。何故なら演技の時は存在せず、真実の時しか存在しないからに他ならない。
もし演技が演技としてドラマのように存在できるなら、ドラマのように苦しみや悲しみも大団円になるだろう。
しかし本当の真実の人生は、そんな甘いものじゃない。

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おかしなこと

2008年08月11日 | 短歌に政治や社会

テレビを見ていたら、こんな事を放送していた。
何でも東京などの都会では、ビルの地下で農場を営んでいるという事である。そしてそこで、野菜や稲を育成しているという。
地下だから太陽光の代わりに、人口太陽、即ち電灯を用いている。
これは大変おかしな事だ。
第一地上の田畑は、なおざりにされてしまっている。土地の有効利用という理由にしても、都市部だけの有効利用を促進して、地方は切り捨てている。
それに電力不足の危機が叫ばれ、資源価格高騰や災害などで発電施設がストップしたなどで節電協力を要請しながら、更には地球温暖化や温室効果ガス問題、原子力発電に関する再処理問題などは片付けられないままに、こういう事に電力を使っている。
「未来の農業生産」とか何とかバラ色の事を言う知識人達は、電力が止まり、水道使用も止まった時はどうするつもりでいるのだろうか。
何を考えているのか、わからない。


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怪談話

2008年08月08日 | 人生設計
暑い日が続いている。
こういう夏は、昔ながらに「怪談話」が流行する。テレビでも「恐怖もの、恐怖体験談」がよく放送される。オドロオドロとしたそれを、みんなが恐々と見ている。
私には、そういうものがどうしてそんなに怖いのか、よく判らない。元々幼少時からそうだったが、それにしても科学技術の発達した現代に、何故こうもこわがるのか合点ガ行かない。
私にはこういう怪談話とか恐怖体験とかよりも、例えば「物が上から下に落ちる」とか「水が流れる」ということのほうが最も怖い。そういう事を人々は、何故恐れないのかが、不思議でたまらない。
普通こういうことは「当たり前」な事として、片付けられてしまっている。即ち「引力」の働きとして。
だがこうして甘く見ていると、「水難事故」にはあうし、「エスカレーター事故」にはあうし、「交通事故」は起こすし、「登山遭難」を起こしたりする。私の住んでいる地域で先日ロードレースが開催されたが、出場した選手が転倒して死亡するという事故もあった。
これらは「当たり前」のことを恐れな買ったからである。「当たり前」のことを恐れないで、「怪談、恐怖体験」とかに恐れているのは、お門違いという事になる。
更にまた、この「落ちる」とか「流れる」とか言う事は、更には多くの恐るべき局面を持っている。
その一つを述べると、この「落ちる」とか「流れる」とか言う現象は、核爆発の根源的な起因とも言えようものでも有るからである。最もこういう私は科学者でもなんでもない、一般市民でしかない素人だが、そんな想像が出来る。
だからこっちの方が、「怪談話」や「恐怖体験」などより、よっぽど怖い。

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人工物のもろさ

2008年08月06日 | 人生設計

人間は「快適さ、楽しさ、楽をする」などのために、科学や機械文明を発達させてきた。即ち自然の中で生きる身でありながら人間は、人間が作り出したもの、「人工的なもの、人工物」によって「快適、迅速、楽しさと豊かな」生活をしようとしている。
だがこの「人工的、人工物」は、もろいものだった。それが今日、様々な形で露呈している。
今日の「人工的人工物」は複雑化微細化精密化、あるいは大型化している。この「人工的人工物」を扱うのは他でもない人間であるし、いざ故障とか事故ともなれば、やはり人間の手に「人工的人工物」委ねざるを得ない。しかしこの「いざ」という時、余りにも「複雑化微細化精密化、あるいは大型化している」ために、非常時や想定外には即応対応できなくなっている。教習どおり、アニマルどおりには行かなくなっている。
この「人工的人工物のもろさ」は、その人工物の疲労から来るもの、不純物混入等の欠陥によるもの、人の間違った取り扱いによるものなどの他に、自然災害や各種の事故、交通事故らによるものが上げられる。
地震、竜巻、突風、集中豪雨やゲリラ雨などに危うい。
今日の「人工的人工物」は、電力や燃料によって稼動しているから、災害などで停電などに見舞われると暗礁に乗り上げてしまう。
こうした自然災害だけで無く、我々の行動による「人的」な行為によっても「人工的人工物」はもろい。
先日のエスカレーター事故、首都高速道事故車燃焼事故等、イベントに押しかけるとか過密道通行に伴うという我々の社会性によるもろさである。
社会性のもろさは、「人工的人工物」に対して偽装捏造行為まで生み出している。それは食品にまで及んでいる。

「快適さ、迅速さ、楽しさ、楽をする」などを追求ために、かえってこうした不自由を招くことにな。
物事には「完全」というものは無い。だとしたら、程々にしておき、自分自身が持っている「肉体力」を使うように努める必要があるだろう。
メタボになったから、エアロビックでエネルギーを浪費せずに、生活にも仕事にも役立てるようにしては・・・・・

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おごれるもの・・・・・・

2008年08月05日 | 短歌に政治や社会
自民・麻生幹事長の「ナチス」発言、民主党が強く反発(読売新聞) - goo ニュース

なってきた、なってきたーーーーー。
「平家物語」のように「おごれるもの久しからず・・・」という風になってきた。

一体、自民・麻生幹事長、「何の何様」なんだろう。
それ程の人物の、つもりなのか。
これが「次期自民党総裁候補」であり、かつ「次期首相候補」といわれている人物なのだから、おぞましい。
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ご立派と、言うぺ゛きなのか

2008年08月03日 | 人生設計

漫画家の赤塚不二夫さんが死去したことについて、ファンなどがその死去を悼んでいる。
だがしかし今日、諸物価高騰で農家や畜産家や漁業関係者などは窮地に立たされている中で、何とか持ちこたえようとがんばっているのに、こうした人達を応援しようとファンになろうとする人はいない。
それに医師不足、看護師不足、介護師不足ということもある上に、少子高齢化が進んでいるというのにーーーーーーー。
いるのはこうした文芸や芸能やスポーツや、テレビのバラエティー番組などに対して
ばかりである。政界も財界も、マスコミメディアもが後生大事に取り上げて、将来の憂いを取り除こうとはしていない。

ご立派と言うべきか・・・・・

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スポーツ精神

2008年08月01日 | 人生設計
先日の「野球部員が強制わいせつ容疑で逮捕された桐生第一高(群馬県桐生市)」について、甲子園出場を認めることになったということである。
この甲子園出場については、世論は不参加を押す意見が多々あった。しかし事件を起こした部員はペンチ入りしていなかったなどで、出場が許可されたらしい。
だがスポーツ界で見られる「暴力、飲酒、薬物」等の事件の絶え間なさを見る時、「スポーツ精神」が忘れ去られているのを思う。

スポーツは、「何のためにするのだろう」。
それは一つには娯楽のためだったろうが、それとは別に「健康な体」と「健康な精神」を養うためであったはずだ。
それが現在では「優勝」を、目指すためだけのものとなっている。そしてこの為に薬物に依存したり、練習の疲れやうっぷん晴らしに飲酒や暴行をしたりして、「健康な体」と「健康な精神」を養うともいえるスポーツ精神は、脇に追いやられている。

これは何も「スポーツ」に関することだけではない。
食品では偽装が、建設建築関係でも偽装や捏造や談合が、教育では大分県から発覚することになった「教員採用試験汚職事件」に見られる試験結果偽装に口利きなどから、本来の「スポーツ精神」などのようなものは、何処にもなくなっている。政治の世界にも、「表現の自由」を取り扱うマスコミメディアなど言論界にも・・・・・

今私達は、本来の「精神」を、取り戻す時期にきている。

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