青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

「自由人権」崩壊の原理(続編)

2008年12月12日 | 人生設計

前述した「自由人権」崩壊の原理において、

「自由人権」を崩壊させる原理は、「他との関りと思いやりの無さ」にあるが、そうさせるものの原因になっているものがあり、それについては語らない。

と述べた。
このことは、別に隠すつもりでも、秘匿するためでも、秘密にするために語らないのではない。語ったところで、意味が無いからである。
それはどういう事かというと、語った事が正しく受け止められない事による。いや受け止められないというよりも、語られたものを「聞いたからお終い」にされる、それでは何にもならないからだ。

今日は、なんでも手に入る。殊にお金を出せば、地位さえ手に入るような有様になっている。そうした「何の苦労」もしないで「手に入るのが当たり前」と思っているような風習の中で、「ほいほい」と語ったところで骨肉とはならないからだ。

現に教育を受けて教養を積んでも、それをちゃんと活かしているものは少ない。
ちゃんと活かすどころか、例えば「悪い事をしてはいけない」と教えられたのに、いい立場にある人々が平気で破り、「贈収賄、偽装、セクハラ、中傷、誹謗、いじめ・・・・」と、枚挙に暇が無い。首相なども、読み間違えしたり、失言や暴言している程だし、それに省府庁職員の概念というものは、本来の仕事であるというのに、この仕事について「特別手当」を請求するという論理が、教養観として備わっているという事だ。

得たものを、活かしててこそ、意味がある。
しかし今は、教育や教養として得たものを、ちゃんと活かしきらず、反対の悪い事に活かしきろうとしている。
このように、良い事に活かせないなら、教えられたり、聞いたりしないほうがよい。そして自分で突き止める方がよい。


先に述べたようにこの事は、「隠すつもりでも、秘匿するためでも、秘密にする」そういうものではなく、既に誰もが知っていることでもある。それに、気が付けばよいことなのである。そういうことのために、私は語らない。

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「自由人権」崩壊の原理

2008年12月10日 | 人生設計
先日新聞に、こんな特集記事が出ていた。
「結婚って必要 ?」というのを、金婚式を迎えた論客と、未婚の論客の二人の対談が、載せられていた。

未婚の論客は言う。

「結婚しているかどうかで、輪に入れたり外したりするのは疑問」
「生き方は自由。それさえ共有できないのか」
「独身は二十四時間私のもの。結婚すると、何かを背負ったり断念したりは仕方が無い」
「結婚すると、リスクが高い確立がある」
「結婚生活に妥協があるように、独身生活にも仕事や私生活に妥協がある。独身が生きにくい社会で、自由を選択する事と自由を謳歌することは違う」

等々、何だかんだといって、最後には「結婚すべきだという画一化がいけないのであって、結婚したい人は結婚して欲しい」と結んでいる。

この未婚主義ともいえる女性の論客の言い分を聞いていると、その根底には「自由人権」が存在しているのがわかる。
だがその一方、この「自由人権」を振り回すために、「自由人権」そのものが崩れ去っていくのが眼に見える。しかしこの人には、それが感じられないようだ。

「自由と人権」を振り回しているために、今の現在の私達の社会は、「他との関り」が希薄になり、「他との関りあい」が希薄になっていった事により、「思いやり」が無くなっている。今の未婚を通す論客の言葉にも、「他との関わりとの思いやり」が感じられない。
「自分勝手」な「我侭」を、言っているだけのようなものである。
このために、確かな「自由人権」は、崩壊しようとしている。
この「自由人権」を崩壊させる原理は、今言った「他との関りと思いやりの無さ」にあるが、そうさせるものが原因になっている。

だが、それは今、語らない。語ったところで「ああ、そうか」で済まされるのが、落ちだからである。
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矛先

2008年12月08日 | 人生設計
今は「民主主義」の時代だから、「自由人権」がまかり通っている。「自由な思い」に「自由な行動」に「自由な表現」が許される。
しかしこの「自由人権」というものには、裏を返せば、計り知れない弊害をもたらしいてる。

私達が「言った、した、行った」という事には、その事に関する責任がついて廻る。しかし一般には、こうしたことには無責任になっている。その為にこの「言った、した、行なった」事に対する反応は、良い形で現れるよりも、悪い形で現れる事が多く、それもその矛先が、何処へ向けられるか、判らないという怖さがある。

ちょっとした「言った、した、行った」ことが相手を傷つけてしまい、それが元で秋葉原殺傷事件のようなものや、幼女殺害事件などになる。これらの元は、別にはいい年をした女性が、美少女のような服装とか下着姿をしるのをテレビの画面に映し出すものだから、その矛先が無関係もない人々に向けられたものともいえる。
旧厚生省事務次官連続殺傷事件にも、そういうことが出来るし、今は無理なリストラや内定取り消し、派遣労働者解雇とか言うような事をしていると、その矛先は上司ばかりか無関係の人々に及ぶ危険性がある。
首相や閣僚などの言動や行動も、こうした危険性を、今日ははらむ社会になっている。

私達は人として生きていくなら、「人との関りの中に、礼儀 愛 思いやり 感謝 正義 勇気(忍耐)」を持って、自分自身を大切に可愛がっていかなければならない。
今の私達は、自分を粗末にしている。疎んじている。虐げている。
自分を本当に人間として一番認め、そして誰よりも一番愛するならば、「他の人を思いやった」事を「言って、して、行って」挙げるがよいのである。

そうすれば、自分に向かうかも知れず、多くの人に向かうかもしれない「矛先」は止む。

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外面ばかり

2008年12月07日 | 人生設計

我々の眼は、外向きになってる。外部しか、見えない。見る対象に対しても、外面しか見てない。
この見る対象に対して尤も困った事は、自分の内面を置き去りにして対面して、見ている事にある。

私達は、この世に生まれて生きていくからには、「独立心と自立心」を持たなければならない。その一方、自分だけが生きているのでもなく、また他のものによって「生かされている」存在でもある。その事によって「他との関り」の中で、生きていくことを知らなければならない。
「他との関り」を知るならば、自分の内面を良く見て、「他への思いやり」を働きかけていかなければならなくなる。

この「他との関り」を知り「他への思いやり」を思う時、私達は「愛を持ち、礼儀を持ち、感謝を持ち、正義を持ち、勇気を持ち、希望を持つ」。
しかし我々がやり、気にしていることは、外面ばかりである。

今日「国際化、グローバル化」が叫ばれ、外面ばかり気にして内需拡大を続けている内に経済金融危機に襲われ、外需不況になり、内需も寂れるばかりか地方も疲弊していく。内需という「内面」を疎かにしていて、外面ばかり飾ろうとしてことにある。
こういうことから「自動車レース」から、「F1シリーズ」も撤退を余儀なくされた。他の国でも、自動車メーカーの首脳用の専用航空機や運転手つき高級車だけでなく、年俸も削減されることになった。

こういうことも出来る。
首相が「読み違え」をするのも、外面だけを際立たせようとしているだけで、「内面」はお座なりな面をさらけ出している。これは国語、母国語を、「国際化、グローバル化」とか言って外面の外来語に重きを置き、本来の母国語を粗末にしている事による。
食べたい物を食べて、生活習慣病になったり、金儲けに走って、食品偽装や贈収賄や、挙句の果てに犯罪に走る。
自らの内面を見詰めて、「他との関りと他への思いやり」を持てば良かったのに・・・・

自分の程を知り、内面を知る人は、「美しい」。
どんなに「虐げ」られ「誹謗」され、「中傷、いじめ、差別」に合っていようとも、それに耐えていくならば、青い鳥は貴方方を「勇気ある強い人」と讃えます。

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適応性の不適応性

2008年12月06日 | 人生設計
私達は、「こうなりたい」とか「ああしたい」と思っている。「希望」であり「望み」であり「志」を、持っている。そしてこの「希望、望み、志」に適応させようとする。
ところが、この適応に適応(適合)させようとする時、適応性が失われることが多い。

これは何故かというと、私達が持つ「執着」にある。この「執着」という拘りにより、一途になってしまう。
一途になる事は、根気になる反面、見境がなくなる。
見境が無くなるという事は、他を押しのけても、という事になり、それは適応性を持たなくなり、不適応性になる。
一般的な言い方をすると、「ミイラ取りがミイラになる」ということになってくる。
この私達が「適応」したいもので「執着」したいものの最大のものが、「幸せ」だといえるだろう。

「幸せ」になるという事は、その反面があって、適応できない不適応性になる。「幸せ」になろうとして、その事にのめりこむために、見境が無くなってしまうからだ。
一つの例を挙げると、自殺率が先進国の上位にある。その原因の中に、中高年男性の自殺が際立って高いのは、仕事の虫になりがちなのと、それによって家庭での居場所が無くなり、それがリストラなどにあったり、更には熟年離婚を持ち出せれたりして精神的に追い詰められてしまう事にある。
これは本人も、家族も、「幸せ」というものに適応(適合)できず、不適応状態になってしまっているからである。

こうした状態にある今、「信仰や宗教」の心を取り入れ、「幸せ」に適応しようという心を捨てて、「幸せ」でなくても、「生きていけるだけで良い」というような、「求めない」という「不適応」状態になる事が、「幸せ」になる早道になってくる。

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変容性の中で

2008年12月05日 | 人生設計

私は、これまで思っていたことや考えていた事を、上手く表現できる「言葉」が見当たらなかった。それが今年のノーベル物理学賞の対象になった理論「自発的対称性の破れ」という表現が、よく似合っているようなので多用させてもらっている。著作権や商標の侵害とか何とかになるのかもしれないが・・・・


「自発的対称性の破れ」というのは、以前にも紹介したように、素粒子が「質量を持っていなかったのが、持つようになる現象」というようなことを言う。私がこのブログでこの「自発的対称性の破れ」という事を取り上げる場合は、普遍的分野(普遍的だから、分野というのは可笑しい)について言う。
ここでは主に、心の分野、精神分野を中心に「自発的対称性の破れ」というものを引用したい。

私達は「確かなもの」を、持っていたい。愛するものでも、財産でも、血縁でも、お金なんかでも、確実なものを手にしていたいと願っている。しかしこの「確実にしたい」というものは、変化する。変容する。
それのみに止まらず、この「確実にしたい」ものは、「確実にしたい」がために、我々自身が操られることになってしまうことになる。

「愛する者」と「確実にしたい」ものなのに、変容するだけでなく、そのものにこちらが操られてしまうのである。
殊にそれは、財産やお金の場合が、特にそうなる。一儲けしようとして、反対にすっカンピンになってしまっている。
今では、先日のニュースにあったが、親子の絆というものも、中三の娘に売春させるのが親の絆のだと思っている親がいた。

我々の心、精神をこのように確実なままに据え置かず混乱させるのは、他でもない、心が異常な「自発的対称性の破れ」という現象を起こすからである。
しかしこうした異常な心の「自発的対称性の破れ」という現象を起こさずに、私達みんなのために平安になるために「自発的対称性の破れ」という現象を起こす事もできる。
それが「信仰」であり、「宗教」である。

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結局

2008年12月04日 | 短歌に政治や社会
派遣社員を正社員にすれば100万円助成…与党PT(読売新聞) - goo ニュース

「補助金、支給金」と言っても、その原資は、税金。
あるいは「赤字国債」で、それも償還費用は、税金。
税金を取り立てて、それで賄って、「補助金、支給金」で煙に巻こうとしても、もう国民としては騙されない。

★ 銀座など 飲み歩きする 宰相に
    家計簿睨み 吐息ばかりが
★ 枯れ草と ススキは揺れる
             空き地にも
    師走の空は 青き夕暮れ


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本気度を

2008年12月03日 | 短歌に政治や社会

歳出抑制方針、首相「維持する」 党内から撤廃論大合唱(朝日新聞) - goo ニュース

結局、前の「決定事項」は「小田原評議」みたいにして、今度もまた「小田原評議」になるのかもしれない訳です。
何とかの「委員会」とかで費用使っても、そうして無駄骨にして、「決定事項」はいつも先延ばしにされる。
「行政改革」も省庁の抵抗にあって危うくなっているという具合に、言いだしっぺではなく、みんながみんな「本気度(本腰)」を持ってもらいたい。

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知恵は娯楽のためか

2008年12月03日 | 人生設計
「知恵」は、何のためにあるのだろう。
教育を受け、教養を積み、知識を得て、何をするのだろう。
今世間を見回してみると、この「知恵」というものが、娯楽のために使われているかのように思い、感じられる。

「娯楽」という言い方は変だし可笑しいが、「豊かで、楽しく、いい思いをしたい」という事に、我々は「知恵」とか「教養や知識」を使っている。
こういうことを詳しく言うのは、限が無くて「しんどい」ので止しておくが、我々が持つ「知恵」は、人生の「苦しさ、悲しさ、はかなさ」というようなことに対して、それを乗り越えていくためのものでは、なかっただろうか。

もちろん、「娯楽」によっては、一時的には「癒され」る。だがそれで、全面解決、とはならない。
「格差」や「差別」などが生じるし、「我侭」になる。「忍耐力」が無くなり、その分「他に甘えて依存」するようになる。それが「いじめ、誹謗、中傷」などになる。
こうした横道にずれた「知恵」は、「食品偽装や贈収賄」など犯罪などをを生む「知恵」に使われてゆく。

そうしてかえって現在、「知恵」の使いどころを見つけられずに、さ迷っている。
「知恵」の使い方、というものを、人それぞれが見つけ出して欲しいものだ。


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師走に入って

2008年12月02日 | 人生設計


★ 寒空に ゴミ拾いする
     子供たち
   一億稼ぐ
     ゴルファーよりも

★ 金融の 景気悪化のと
     騒いでも
   紅葉に染まり
     師走迎える
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