天災地変は、我々を苦しませ、悲しませるためにあるのだろうか。
また天災地変ばかりでなく、我々が必ず直面しなければならない「老病死」や、「親しく愛しいものとの別れ、欲しいものは必ずしも手に入らない、厭な者憎い人と顔を合わせなければならない、何事も思うようにはならない」などは、我々が憎まれ者だからこんなことになるのだろうか。云ってみれば、神様や仏様は、我々が憎いから、こんな目に合わせているのだろうか。
神様や仏様には、理性がある。
普通この事を「慈悲」といい、また「愛」という。
神や仏さまの理性とはどういうものかというと、我々が天災地変などの苦しみや悲しみに遭遇するのか必然のことなのであって、誰もがいずれは直面しなければならない。
この必ず直面すべきことに対して、どのような事態にも「天の子、仏の子」として誇り高く耐え忍びて生きることを願うのが、神や仏さまの理性であり、それはそもそもに天災地変の理性でもある。
余談だが、キリスト教での「アーメン」とは、「あれかし」ということなのだそうだ。
他方の仏教の「南無阿弥陀仏」は、「仏の心に帰る」という。
「仏の心であれかし」となれば、宗派対立も無い。
首都圏焼却灰、山積み セシウム検出、秋田・小坂町拒否(朝日新聞) - goo ニュース
利益を生み出そうとすることによって発生する「廃棄物」や、「残滓、使い捨て品、選別破棄物」などの後始末が、とうとう行き場を無くすこととなった。
それは「利益主導主義」の崩壊である。
利益があるなしにかかわらず、何でも大切に扱ってこなかったその付けを、今から、これから払わされることになってきた。
前述したように、我々が産まれ生きているこの世は、常に動いている。
動いているという事は、「働いている」という事である。
「働く」といっても、我々が言う「働く」とは異なる。
我々が言う「働く」は、「生活の糧を稼ぐ」ことが「働く」ことであるのに対して、この世の動きという「働き」は、「 行動を秩序づけるためのおきて。さだめ。」という秩序を維持させていくための働きを言う。それ故にこの働きには、「評価も、数値も、優劣も」無関係になる。
ところが我々人間の方はときたら、「身分がどうの、財産がどうの、家系がどうの、最終教育がどうの」とかしましい。そしてそれを引き合いに、相手との対等関係を、自らが破棄する。差別化していく。
「律正論」は、こうした我々の生活形態から離れて、本来の「 行動を秩序づけるためのおきて。さだめ。」に沿う生き方に立ち返る、即ち心と精神の「律正」のための理論ということになる。これは、早く言えば「宗の教え」というものということとなり、これを「宗教」という。
「宗教」は、「心と精神」を、正しく秩序よく働かせていくための、教えである。
だが「宗教」に名を借りて、悪戯に本来の「 行動を秩序づけるためのおきて。さだめ。」に沿う生き方とは異なるものもある。
この記事は、家で取っている地方紙の一面に掲載されていたものである。
我々は、何でもかんでも「完全」であることを求める。
しかし物事には、「完全な最高水準」というものは、有りえない。
なんとなれば、物事には寿命というものがあるからである。いうなれば、「評価、価値」というものには、寿命があるということであり、別な言い方をすると「賞味期限」があるということでもある。
第一、これまで「最高水準」と言われてきたものに、少しの間違いも無かったものは、皆無である。
例えば「最高水準の医学」と銘打たれていたものが、
C型肝炎に侵されたりしている。
それにまた、物事には本体が持つ欠陥と、外部からの作用との相乗性との効果が、甚大で想定が伊野間の行動を起こさせる。
こうした甚大な負の作用を起こさせるのは、「最高水準」を目指そうとすればするほど、その反対の「最低水準」へ向かわせようとする働きが加わることにある。即ち「逆進性」である。
「孫子の兵法」ではないが、「前」ばかり見るのが「能」ではない。「後ろ」も見なければならない。
「勝つ」ことばかりにこだわらず、「負けるが勝ち」と行かなければならない。
そうでないと、「桁違い」な損失を招く。
今日のNHKテレビでは、初公開の特集ものとして「宇宙の渚」が放映されている。
こういうもののために、どれほどの資金が使われただろう。
何千兆円にも、なるだろう。
こんな大金を使ったものが、そんなに美しいものと、云えるだろうか。
「東日本大震災」で家族を失い、親を失い、散り散りバラバラになりながら健気に生きていこうとしている人々こそ、美しいというべきこと。
「宇宙開発」などのために、大枚の金を使うよりも、そうした金を、いつ襲うか知れない災害のための基金として蓄えておいた方が、いざという時に役に立つ。
こんな番組を作るのに資料を提供して稼いだり、製作したり、見ていたり、そして「地デジ化」と大騒ぎした世の中とは、美しくも何も、醜い方に思われてしまう。
「律正論」の「律」とは、「 行動を秩序づけるためのおきて。さだめ。」のことを言う。
それ故に「律正論」とは、この「秩序」が正しく行われるようになさしめるための「理論」である。
我々が産まれ生きている「この世」、といっても他に別の世がある訳でもなく、これが随一の世なのだが、この世はいつも動いている。流転し変動し、変化している。
この「いつも常に動き、流転し、変動」しているということは、反対のことを言えば「動かない」でいたら「淀み」が生じてしまい腐ってしまうことを意味し、この事から「動き、流転し、変化」するということは、新線を保つということとなる。
我々人間においても、生命あるものは「生命体」といい、「動植物」という様に、「動く」ことが基本づけられている。
ところが人間は、「文化文明」の発達によって「豊かで、楽しく、楽(快適、便利)」な生き方をしようとすることとなり、それは「動かない」で甘受することが、「人間らしい人間」の生き方と思うようになってしまっている。
このために人間は、肉体にも心、精神にも「サビ」が付いてしまっている。
この「肉体と心・精神」のサビを落とすことが、今の我々の愁眉の急になっている。
それを急き立てるように天地自然は、天災地変を巻き起こして、「律正論」を展開させている。
世の営み 2011/9/16
夏の終わりの 夕暮れは
夕焼け小焼けで 陽は赤い
家路を急ぐ 人達の
長い尾を引く 人影に
空に輝く 一番星
強き野分(のわき)は 荒れ狂い
堤や家並み 押し流し
おごる人の世 戒めて
通り過ぎた その後は
青く澄んだ 秋の空
たわわに実る 味覚物
玉ねぎ作る 手間惜しみ
たった一つのメダル 取り合いする
農地を見捨て 荒れるがまま
山川見捨て 都会へ行き
金を求めて 群がり行く
筋雲浮かぶ 空の下
運動会の 笑顔の子
命受け継ぎ 受け継がせば
財の営み 先立たず
和を営み絆営み 自然との営みに
世の営みは 果てしなく
東電、原発立地自治体に寄付400億円 予算化20年余(朝日新聞) - goo ニュース
原発事故などの賠償のために、「債務救済」なんか求めながら、その実は、いや裏では、こんなに金がある。
それだけでなく、経営陣ときたらタンマリ高額給料を受け取る、いや「勝手に自分たちで決めて」受け取っている。
一度この経営陣や、かっての経営陣だったOBたちの資産全部を投げださせて貧乏にさせ、全容を明らかにせんことには、信用がならないね。
東電なんかは一度破綻させ、その上で破産管理人による新たな経営で出発すべきなのかもしれない。
15日付けの家でとっている新聞の読者投稿欄に掲載されていた記事、「肌で感じる生態の異変」と、いまひとつの記事「残念でならない多い高齢者虐待」は、個別の事とは言えない。むしろ関係があり、関連を持っている。
「生態系」が狂うような世の中になっているから、「高齢者虐待」が多発するような社会になっていると言える。また、その逆でもある。
そしてその元凶は何であるかというならば、「経済学」の発展であるといっても過言ではない。即ち「資本主義」の台頭であり、「景気拡大、経済発展」主義がまかり通ることによる。
これにより「評価、数値、優劣」によって差別化されることとなり、これによって切り捨てられたものは悲哀を味わう運命にある。
松下幸之助は「経営の神様」と言われているが、「財の営み」には優れてはいても、「心の営み」や、「自然との営み、和の営み、絆の営み、相関的営み」等については、怪しくなる。
「心の営み、自然との営み、和の営み、絆の営み、相関的営み」等は、「地位、権威、金銭、富」等の欲を離れたものでなくてはならず、それは宗教的見地に立つものでなければ、「生態系の異変も、高齢者虐待」も無くならない。
リニア中央新幹線、排ガスをゼロに JR東海が新技術(朝日新聞) - goo ニュース
まるで車体製造や、超電導磁石や設備などには、これっぽっちも排ガスも廃棄物も、人件費さえ掛からなかったようなことを言っている。
全く「苦肉の策」も、ここまでくれば、こっちの頭が変になる。