プロテスタントの場合、お祈りをするのに一定のパターンがある。
まず始めに信じるものへの、呼びかけの言葉である。
クリスチャンなら、「天にまします、お父様(キリスト様)」と呼びかけるのだろうか・・・ 。
これは、日本人の場合なら「天国のおじいちゃん(あるいはおばあちゃん)」となるのだろう・・ 。
そして、其の次は近々身の回りに起こった事象を振り返り感謝すべきことを思い、そのことに至った感謝の念を、呼びかけた見えざる者に対して言葉に表すわけである。
一日を振り返れば、必ず幾つかの感謝すべき事柄が身の回りに有る事は、誰もが体験する事ではなかろうか・・ 。
もし何も無いよと言う人が居られるのなら、半年くらい近くの教会に足を運ぶ事を、お奨めしたい。 物事は見る方向によっていろんな角度がある訳で、其の事象に恨み辛みしか見えない人は、多面的なものの見方を教会等から教わった方が良い。
統逸教会のように韓国人が主催するところもあるので、必ずしも教会なら何処も安全と言うわけではないが、私利私欲に薄い友人知人が通っている日曜礼拝などであれば、殆ど間違いは無いような気がする。
そして、今日のあるいは近日の反省を感謝した後に、明日のあるいは未来の自分の願いが実行できるように、手を貸してもらえるように、始めに呼びかけた天国の神様に、お願いするわけである。 さすれば、明日の自分の生きる姿勢が、あるいは実行すべきことが形になって、己自身にも見えてくるのではないだろうか・・ 。
言葉に出す事で、其の思いは一段と確信に近づくので、声に出した方が良いに決まっているのだが、宗派によっては言葉を出すことによって人格が判断されたりする危険性も有るので、ただ黙って自分の心の中だけで、言葉を念じる方法も無いわけではない。
そして言葉の終わりに、又冒頭呼びかけた神様の名を口にするわけである。
この、お祈りの行為を行なった事の無い人は、そのことによる『ストレス』の雲散霧消をいくら説明しても、理解出来ないのではないだろうか・・ 。
『上杉鷹山公』であったか、政(マツリゴト)に迷ったとき神の前に一人座り込み、私心を払い自らの行うべき道を、神に問うたことが何回も有った・・ 。
このグローバル社会、見えるものしか信じない人は、それはそれで仕様がない。
サルにお経、ウマの耳に念仏、理解出来ない人々に解らせようと努力する事が、いかに自分自身の気持ちを萎えさせる事か・・ 。 最近は、言葉の解らない有象無象の衆に解らせようとする労力は、『無駄』と達観するに至った。
キリスト教が念頭に浮かんだのは、新約聖書も、旧約聖書も、人類に伝わる他の古典同様、人類の英知が集約されている所が、多々有るからで若い人には大いに親しんでもらいたい、という老婆心が疼いたからに他ならない。
まず始めに信じるものへの、呼びかけの言葉である。
クリスチャンなら、「天にまします、お父様(キリスト様)」と呼びかけるのだろうか・・・ 。
これは、日本人の場合なら「天国のおじいちゃん(あるいはおばあちゃん)」となるのだろう・・ 。
そして、其の次は近々身の回りに起こった事象を振り返り感謝すべきことを思い、そのことに至った感謝の念を、呼びかけた見えざる者に対して言葉に表すわけである。
一日を振り返れば、必ず幾つかの感謝すべき事柄が身の回りに有る事は、誰もが体験する事ではなかろうか・・ 。
もし何も無いよと言う人が居られるのなら、半年くらい近くの教会に足を運ぶ事を、お奨めしたい。 物事は見る方向によっていろんな角度がある訳で、其の事象に恨み辛みしか見えない人は、多面的なものの見方を教会等から教わった方が良い。
統逸教会のように韓国人が主催するところもあるので、必ずしも教会なら何処も安全と言うわけではないが、私利私欲に薄い友人知人が通っている日曜礼拝などであれば、殆ど間違いは無いような気がする。
そして、今日のあるいは近日の反省を感謝した後に、明日のあるいは未来の自分の願いが実行できるように、手を貸してもらえるように、始めに呼びかけた天国の神様に、お願いするわけである。 さすれば、明日の自分の生きる姿勢が、あるいは実行すべきことが形になって、己自身にも見えてくるのではないだろうか・・ 。
言葉に出す事で、其の思いは一段と確信に近づくので、声に出した方が良いに決まっているのだが、宗派によっては言葉を出すことによって人格が判断されたりする危険性も有るので、ただ黙って自分の心の中だけで、言葉を念じる方法も無いわけではない。
そして言葉の終わりに、又冒頭呼びかけた神様の名を口にするわけである。
この、お祈りの行為を行なった事の無い人は、そのことによる『ストレス』の雲散霧消をいくら説明しても、理解出来ないのではないだろうか・・ 。
『上杉鷹山公』であったか、政(マツリゴト)に迷ったとき神の前に一人座り込み、私心を払い自らの行うべき道を、神に問うたことが何回も有った・・ 。
このグローバル社会、見えるものしか信じない人は、それはそれで仕様がない。
サルにお経、ウマの耳に念仏、理解出来ない人々に解らせようと努力する事が、いかに自分自身の気持ちを萎えさせる事か・・ 。 最近は、言葉の解らない有象無象の衆に解らせようとする労力は、『無駄』と達観するに至った。
キリスト教が念頭に浮かんだのは、新約聖書も、旧約聖書も、人類に伝わる他の古典同様、人類の英知が集約されている所が、多々有るからで若い人には大いに親しんでもらいたい、という老婆心が疼いたからに他ならない。