ここで、ちょっと復習を。
人間は言葉を使って生きる動物です。
言葉なしには文化的な生活はまったく成り立たないでしょう。
言葉によって、世界とは何か、社会とは何か、私とは何か、だから何をすべきか、何をしてはいけないか、何をしていいかといったことをはっきりと分かっていないと、ちゃんと生きていくことができません。
(ただしあまりにも当たり前になっていると、改めて言葉にしろと言われてもできにくいということがありますが。)
そういう言葉によって語られる体系的な世界観・人生観・価値観のセットを「コスモロジー」というのでしたね。*
「コスモロジー」は、ギリシャ語の「コスモス(世界)」+「ロゴス(秩序・言葉)」から来ています。
さて、仏教も一つのコスモロジーです。
しかも、「仏教」と呼ばれる文化現象は、複合的なコスモロジーだと考えられます。
前回あげた事項のうち、2番目のシリーズは、宗教学では「呪術」と呼ばれるようなものです。
ですから、こうした仏教の営みは、「呪術的仏教」と呼ぶことができるでしょう。
加持祈祷が中心になっていますから、「祈祷仏教」と呼ぶ学者もいます。
1番目のシリーズの特に輪廻、地獄-極楽という話は、「神話」に分類されます。
「仏教神話」あるいは「神話的仏教」です。
実際の仏教の営みとしては、葬式や法事が中心ですから、「葬式仏教」と呼ばれることもあります。
しかし、「葬式仏教」という言い方には、かなり否定的なニュアンスがありますので、私としてはむしろ「先祖・祖霊崇拝仏教」あるいは「供養仏教」と呼びたいと思います。
これは日本人にとって、とても本質的で大切なものだ、と私は考えています。
3番目のシリーズは、各宗派の唱える言葉で、こうした仏教を「宗派仏教」と呼んでおきましょう。
4番目は、「文化的仏教」あるいは「仏教文化」あるいは「観光仏教」と呼べるでしょう。
5番目は、「哲学的仏教」あるいは「仏教哲学」と呼ぶことができます。
そして、私の理解では、仏教のもっとも核にあるものは、「覚り・智慧」と「慈悲」ですが、それを「霊性的仏教」と呼びたいと思います。
日本の伝統的な仏教は、こうした6つの側面に、さらに神道と儒教と道教などが習合した、非常に複合的なコスモロジーだと考えられます。
そして、かつての日本人の平均的な心理的発達のレベルが呪術と神話の段階にあったために、文化現象としての仏教の主な部分はほとんど呪術・祈祷仏教と神話・供養仏教のかたちで営まれてきました。
その担い手が「宗派仏教」だったのです。
しかし、近代になって、仏教の前近代性(呪術性、神話性)が否定されるようになり、その担い手である宗派仏教はしだいに力を失いつつあるようです。
近代人にとって、いまだにそれなりに魅力があるのは、観光の対象であるような仏教文化と、教養の対象であり学べば理性的に納得できる仏教哲学・哲学的仏教でしょう。
そして、「霊性的仏教」こそ仏教の核心である――と私は考えていますが――ことを、はっきりとつかんでいる人は、残念ながら必ずしも多くないように見えます。
この授業では、哲学的仏教の考え方を学びながら、霊性的仏教こそ仏教の核心であること、しかしそこがしっかりと押さえられていれば、現代でも他の側面が意味を持ちうること、この2点について述べていきたいと考えています。
まず、次回から、原点である釈尊、ゴータマ・ブッダの教えのポイントについてなるべくわかりやすくお話ししたいと思っています。
*写真は西教寺の阿弥陀如来
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