縁起の解釈について

2005年12月13日 | 心の教育

 初心者の方には無用なことですが、ここですでにそうとう仏教の知識のある方のための補足として、「縁起」の解釈についての私の考えを簡単に述べておきましょう。

 「釈尊は縁起の理法を覚った」という場合、原始仏典では量的には明らかに「十二縁起」のほうが多く出てきます。

 そこで、「釈尊は十二縁起の洞察によって覚ったのだ」と解釈される方が多いのですが、私にいわせていただけると、老死(の苦しみ)の原因が「無明」にあると知的に洞察したところで、それが心の奥底までの「明=覚り」に自動的になるとは思えません。

 瞑想体験に基づいていえば、心の奥底からの「明=覚り」を体験してはじめて、「無明」がまさに「無明」だったとわかるのです。

 そして、そういう「明=覚り」の体験をした後で、分別を超えたその体験をあえて言葉で表現したのが、「すべては分離していない。つながって一つである」という意味での「縁起」というコンセプトだ、と私には思えます。

 だからこそ、釈尊は、それが時代も国も民族も超えた普遍的な宇宙の「理法」であると主張できたのではないでしょうか。

 臨床的な視点があるとすぐわかるはずですが、「老死」の原因が「無明」だと知的にわかったところで、「老死(への不安や恐れや不条理感)」がなくなったりはしません。

 「老死(への不安や恐れや不条理感)」がなくならないような、単なる知的洞察は「覚り」と呼ぶにはあまりに浅いものです。

 「縁起」に関する仏教文献学における議論は、臨床的視点を導入することによって、はっきりと決着がつくのではないでしょうか。

 「老死(への不安や恐れや不条理感)」の「滅」とまでいかないまでも、少なくともそれがそうとう軽減されたと感じるくらいの瞑想体験をすることなしに、瞑想から生み出された仏陀の思想を論じることは、一度も海を見たことのない人や、行く道の途中にいてまだ海を見ていない人が、海のすばらしさについて知ったふうに語るのよりももっと当てにならない話だ、と私には思われます。

 「八正道」とりわけ「正定」なしの「縁起」の解釈や議論はまったく意味をなさない、と私は考えています。

 しばしば行なわれてきたらしい仏教のさまざまなコンセプトに関する議論に参加しないのは、単に私が仏教の専門家でないからではなく、そういうわけなのです。

 しかし最近、海を見たことのない人の「海談義」のような仏教論がかなりの影響力を持っているようで、それは日本の精神状況にとってはかなり害のあることだという気がしてきていますので、そのうちあえて批評を始めるかもしれません。


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コメント (5)
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