仏教には、「苦」だとか「滅」だとか「無」だとか、印象の暗い言葉がたくさん使われています。
そのために、仏教は暗い宗教だという印象があります。
それは、本質的に言うと誤解なのですが、そういう誤解は仏教の外部だけではなく、残念なことに内部にさえもあるようです。
そういう私も、かなり長い間そういう誤解をしていました。
「四法印」の場合の「一切皆苦(いっさいかいく)」という言葉もそういう印象で理解というか、誤解されてきたのではないかと思います。
しかし私の読むかぎり、ゴータマ・ブッダのいう「苦」は、無条件で「あらゆるものが苦しみである」ということを言っているのではありません。
「苦諦」のところでお話ししたとおり、「無明」、「渇愛」、「執着」があるかぎり不条理感があるという意味で、条件付きです。
「無明」に始まる11の諸条件がなくなれば12番目の「老死」に関わる苦・不条理感はなくなる、というところにこそゴータマ・ブッダの教えの真髄があります。
しかも、それには方法もあるというのです。
「滅諦」と「道諦」でしたね。
三法印の第三は、「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」で、四聖諦では「滅諦」に当たります。
この言葉も、「釈尊が涅槃に入られた」という言い方から「涅槃」は「死」を意味するようになり、その上に「寂」という漢字が「寂しい」という意味なので、まったく暗く寂しく陰気な意味合いにとられがちでした。
これまでたくさんの社会人や学生たちに聞き取りをしてきましたが、ほとんど全員といってもいいぐらい例外なくそういう意味に解釈していました。
前にあげた『平家物語』の次の句、「沙羅双樹の花の色、盛者必滅の理をあらわす」などの名文句もそういう誤解を日本全国に浸透させる上で大いに影響があったといえるでしょう。
かつてキリスト教の牧師をしていたころ、僧職にある方と話していて、「キリスト教と比べて仏教は陰々滅々で暗くてダメですねえ。何しろ教祖の最後が復活ではなくて、涅槃ですからねえ」という言葉さえ聞いたことがあるくらいです。
これは別に謙遜で言われたのではなくて、本気でそういう理解をしておられるという感じでした。
しかし、「涅槃」とは、原語をカタカナ表記すると「ニルヴァーナ」で、「ニル・消える」+「ヴァーナ・炎」つまり「炎の消えた状態」を意味しており、炎のように人間の心を焼く煩悩が浄化されてまったく消えてしまい、実にすがすがしく爽やかになった心境のことです。
「涅槃」自体にそういう意味があるのですが、煩悩の鎮まった状態をもっとはっきり表現したのが「寂静」という言葉です。
煩悩の炎が消えてしまえば、静かな静かな心境になるのは当然といえば当然です。
仏教のメッセージが「苦」で始まるために、暗い話だと誤解されてきたのですが、それは先にも言った譬えのように、医者が「あなたはこういう病気です」と宣告するのは、「こういう治療すれば治ります」という結論の前置きであるのに似ています。
八正道の実践によって、無明・煩悩の炎に焼かれて苦しんでいた人間が静かですがすがしく爽やかな心で生きられるようになるというのですから、これはどう考えても明るい知らせです。
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