ゴータマ・ブッダ略伝2

2005年12月08日 | 歴史教育

 とことん実践してみた結果、結局、そうした苦行では覚れないと判断したゴータマは、再度、徹底的な禅定を試みる決心をします。

 そして、苦行で汚れた体を河で洗い、ちょうど通りかかった村の少女スジャータの捧げるミルク粥を飲んで体力を回復しました。

  それから、ただひとりネーランジャラー河(尼蓮禅河、ガンジス河中流南岸)のほとりの菩提樹の下に坐り、「覚るまではけっしてこの座を立たない」と決死の覚悟で、静かに禅定・瞑想・思索を始めます。

そして長い禅定の果てについに覚り(成道)、覚った者になったとされています。

 後に固有名詞のようになった「仏陀(Buddha)」 とは、もともとは一般名詞の「覚りを開いた人」という意味です。

 前428年、35歳のことだとされています。

 日本では、12月8日――ちょうど今日ですね――のこととされており、お寺では「成道会(じょうどうえ)」という法要があり、特に禅の道場ではこの時期、「臘八摂心(ろうはつせっしん)」という集中的な修行が行なわれます。

 ブッダが覚りを開いた場所は「ブッダガヤー」と呼ばれ、今日に到るまで仏教の重要な聖地になっています。

 覚りを開いた後、彼は自分の覚ったことがあまりにも深く高くてとても人には理解できないのではないかと考え、教えることをためらったのですが、ヒンドゥー教の最高神ブラフマナー(梵天)に3度も強く請われ、あえて教える決心をした、という伝説があります。

 その後、旧友の修行者5人なら、自分の達した境地を理解できるかもしれないと思い、聖地ベナレスの郊外にある「鹿の園(鹿野園)」というところに行きます。

 かつての仲間は、苦行を捨てたゴータマを最初は無視しようとしたのですが、その姿があまりにも爽やかで輝くようなので、思わず出迎え、教えを聞くようになり、弟子になったといわれています。

 ここで、仏教の教団が成立したわけです。

 その後、毎年雨期には一ヵ所にとどまって定住生活(雨安居・うあんご)をしましたが、それ以外の時期にはつねに国中を遊歴して教え続けました。

 最後には、現在のネパールの国境に近いクシナーラーというところで80歳で亡くなりました(「入滅」とか「涅槃に入る」とかいわれます)。

 ブッダの伝記は、ちゃんと語るともっともっと長くなり、また感動的なのですが、私の任ではないので、友人の羽矢辰夫さんの著作などにゆずることにしましょう(『ゴータマ・ブッダ』『ゴータマ・ブッダの仏教』〔どちらも春秋社〕)。

 ブッダは何を覚り、何を教えたのか。

 次回から、これまた簡略に、私の解釈をお話していきたいと思います。


*写真はスコットランド国立博物館所蔵のガンダーラ仏


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ゴータマ・ブッダ略伝1

2005年12月08日 | 歴史教育

 すでによくご存知の方も多いでしょうが、ごく簡単に伝記的なことをお話しておきます。 

 仏教の創始者ゴータマ・ブッダ(仏、仏陀、Buddha)は、紀元前463~383年頃の人だと考えられています(他にもいろいろな説があるようですが)。

 ネパールの釈迦族の国王・浄飯王(シュッドダーナ)の長男として生まれ、俗姓をゴータマ・シッダッタといいます。

 国の中心はカピラ城といって、中部ネパールの南のタラーイ盆地にあり、誕生地はその郊外のルンビニー園だったといわれています。

 日本でふつう「お釈迦さま」とか「釈尊」といわれるのは、釈迦族出身の聖者という意味です。「釈迦牟尼(しゃかむに)」という場合の、「牟尼」が「聖者」に当たります。

 生後まもなく母のマヤ夫人が亡くなり、叔母に育てられました。

 若いころから、人生にはなぜ、病気や老いや死という苦しみがあるのだろうという深い疑問があって、王家の長男という恵まれた立場に安住していることできませんでした。

 しかし、王族の義務として跡継ぎの子をもうける必要がありますから、16歳で妃を迎え、ラーフラという男の子も生まれました。

 しかし、どうしても悩みを解決しないではいられなくなり、29歳で親も妻子も財産も立場もみんな捨てて修行者になりました。

 ふつうの家庭・社会の生活から出ていくという意味で「出家」といわれます。

 (それに対してふつうの家庭・社会生活をする人を「在家」といいますね。)

 そして、ほとんど死にそこなうところまでいろいろ苦行を重ねたり、あちらこちらいろいろな師を尋ね歩いたりしたのですが、いまひとつ満足できませんでした。

 最後にアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタという二人の仙人について禅定を修行し、どちらからも後継者になることを期待されるほどの境地に達したにもかかわらず、自分ではそれでは納得できなかったといいます。

 そこで山林に籠って6年間、瘠せさらばえて肋骨が見えるくらいまで苦行に苦行を重ねたのですが、それでも自分で納得できる覚りを得られませんでした。

 こうした常識的な安定した生活に安住しないだけでなく、既存の宗教的な方法についても、ぎりぎりまで実践し師から認められるまでになっても、自分で納得できるまではどんなに苦しくても安住しないという姿勢が、「覚り」という大きな飛躍をもたらしたのだといっていいでしょう。


*写真は釈迦苦行像:神奈川新聞のWEB記事より


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