特別講座のお知らせ

2005年12月12日 | 心の教育

*コスモロジー講座が進行しています。悲惨な事件があるたびに、コスモロジーによる倫理の再構築は急務だと改めて感じます。残り2回ですが、ぜひ、多くのみなさんに参加していただきたくて、再度、最新記事にしました。

特別追加講座:宇宙と私の大きな物語―宇宙カレンダー第Ⅵ版を語る

 宇宙137億年の歴史を1年に縮尺した「宇宙カレンダー」は、宇宙というもっとも大きなものについての物語であるだけではありません。

 なぜ私は生きているのか、なぜいのちは大切なのかといった、根源的な問いに答えてくれる、宇宙と私の関わり・つながりについての物語でもあります。

 そしてその物語は、かつての神話的な物語とちがって、現代科学の成果をベースにしていますから、信じ込む必要はなく、疑い検証することができ、しかし学ぶと多くの人がきわめて理性的・合理的に納得することができるかたちになっています。

 しかも、「137億年かけて進化し続ける宇宙」という宇宙像・コスモロジーは、ともすれば落ち込みそうになるネガティヴなことの多い時代に生きている私たちに、大きなスケールでの希望をもたらしてくれます。

 さらに何よりもこのコスモロジーは、今崩壊しつつある日本社会の倫理性を根源から再構築する力を持っていると思われます

 当研究所主幹は、すでにあちこちで繰り返し語ってきていますが、いろいろな事件に表われた日本の精神状況の荒廃を実感するにつけ、日本社会全体に浸透するまで何度でも語り続ける必要がある、と覚悟を決めています。

 今回は、「宇宙カレンダー」に沿って、データや解釈や語り方にさらなる工夫を加えたヴァージョン・アップ第Ⅵ版です。

 日本と日本人を何とかしたいと真剣にお考えのみなさん、ぜひ、お出かけください

講師 岡野守也:サングラハ心理学研究所主幹

日程 2005/10/25、11/8、11/22、12/6、12/20、1/10
火曜日6回 18:45から

会場 ヒューマン・ギルド03-3235-6741 新宿区天神町6番地 Mビル3階
   地下鉄東西線「神楽坂」駅 矢来町口下車 徒歩約3分

受講料は原則として、それぞれ1回一般3,500円、会員3,000円、専業主婦他2,000円、学生1,000円に×6回分ですが、都合で毎回出席が難しい方は、単発受講も可能です。

テキストは必要に応じてコピーを配布します。

問い合わせ、申し込みは、サングラハ心理学研究所 岡野宛に、住所、氏名、年齢、性別、職業を記入の上、E-mail:okano@smgrh.gr.jpか、Fax.0466-86-1824で。
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縁起の理法2

2005年12月12日 | 心の教育

 「縁起」の第2は、「十二縁起・十二因縁」と呼ばれるものです。

 系統のちがった伝承では、ゴータマ・ブッダは、菩提樹の下で、「すべて結果があるものには原因があるはずで、その原因をたどっていくと、最初の原因にたどり着くはずだ」(「因果の法」)と考え、「なぜ、老いや死という苦しみがあるのだろうか…それはそもそも生があるからだ…」と思索・瞑想をしていったといいます。

 そして、結果から原因へと遡って、「老死(の苦しみ)があるのは、生(しょう)があるからだ。生があるのは、有(う)があるからだ……取(しゅ)→愛(あい)→受(じゅ)→触(そく)→六入(ろくにゅう)→名色(みょうしき)→識(しき)→行(ぎょう)→無明(むみょう)」と瞑想・洞察していったのです。

 これを「逆観」といい、あとで整理した順を「順観」といいますが、ブッダは、逆観と順観を繰り返して洞察を深めていかれました。

 「無明」とは、心の表面にはびこり、さらにその根っこは心の奥底に潜み澱んでいる根源的な無智(無知ではなく)のことです。

 すべてのもの(者・物)を分けてばらばらに見るのです。

 そして特に自分と自分でないものを分けておいて自分にこだわり、いのちといのちでないものを分けておいていのちにこだわります。

 そういう心は、ほとんどすべての人(凡夫)のなかでしっかりと働いており、悩みの源になっています。

 無明があると、実体(これは後でくわしく説明します)としての自分があるという妄想・構想を起こす力が働きます。それを「行」といいます。

 続いて、そういう無明に基づいた構想力によって、「心」つまり「識」の働きが起こります。これは、「実体としての自分があると思う潜在的な心」といっていいでしょう。

 そしてそういう自分があると思う心が生じると、当然のことですが、外側に自分とは別の分離した「外界」があるように思えてきます。それが「名色」です。
 つまり個別の「名前」に対応した分離した個別――個々別々、ばらばら――のものが「色や形」をもって存在しているように見えてくるわけです。

 続いて、自分と外界は分離しているのだという思い込みを基にして、五つの感覚器官と意識=「六入」が働きます。

 さらに、外界の対象と感覚器官と意識との「接触」=「触」が起こります。

 それが「感受」されることを「受」といいます。

 実体としての自分が存在するという錯覚に基づいて心と外界の接触や感受が行なわれると、外にある対象は自分ではなくて、しかもそれなしには生きられませんから、いつも自分に足りない何かが外にあり、たえずそれを獲得‐所有しないと生きていけないという、激しい喉の乾きのような欠乏感が生まれます。それを「愛」あるいは「渇愛(かつあい)」といいます。

 そして欠乏感・渇愛の気持で人や物に接して、少しでもいい思いをするともうそれに執着するようになってしまう。それが「取」です。

 そういう無明から取までの心の働きを基に、宇宙と一体でなく、他の人や物とつながっておらず、流れでもない、実体としての生命=「有」が妄想・構想されます。

 そして、それを基にして誕生があり人生が営まれていきます。「生」です。

 そういう無明・妄想と執着に基づいた生き方をしているかぎり、「老い」と「死」は、いのちの自然なプロセスとして受け容れるどころか、絶対に受け容れられない苦痛、人生の根本的な不条理と感じられることになります。

 ブッダにとって、生理的な意味での「老死」そのものではなく、心理的な「老死」への不安や恐れや不条理感こそが問題だったと思われます。

 そうした「老死」の苦しみの原因論が第2の意味での「縁起(または因縁・因果)」であり、その苦しみを超える体験をあえて言葉にしたのが第1の意味での「縁起」である、と私は捉えています。


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