生前、ゴータマ・ブッダは、自分の教えを本に書こうとか、体系的にまとめておこうという意図は持っていなかったようです。
教えているその時その時、聞いている相手にふさわしい、相手の慰めや救いになるような説き方をしています。
それを「応病予薬(おうびょうよやく)」とか、「対機説法(たいきせっぽう)」とか、「方便(ほうべん)の教え」といいます。
余談ですが、「ウソも方便」ということわざは、こういうところからきています。
そのため、ある人に説いたことと別の人に説いたことが、単純な論理でいえばくい違っているということがしばしばあったようです。
もっとも典型的なのは、死後の生・輪廻があるかないかということについても、ある人には「生きているときにいいことをしたらいいところに生まれ変わる、悪いことしたら悪いところに生まれ変わる」といった説き方をしており、別の人には「修行者にとって輪廻があるかないかはどうでもいいことだ」というニュアンスの説き方をしています。
この2つは、単純に取ればもちろん矛盾していますね。
こういうことが他にもいろいろあったようです。
それで、弟子たちがブッダの真意がどこにあるかわからなくなった場合、生きている間はブッダに直接聞けばよかったのですが、ブッダが亡くなった後、どう解釈すればいいかいろいろ問題が起こってきます。
そういうこともあって、ブッダの死後、言い残した言葉の解釈の違いなどによって、仏教にはいろいろな派ができてきます。
そこで後に、最小限3つないし4つの特徴があることが「仏教」と呼ばれる条件であるとされるようになりました。
「三法印(さんぼういん)」とか「四法印(しほういん)」とかいわれます。3つないし4つの法=真理の印という意味です。
「三法印」というのは、次の3つのコンセプトです。
①諸行無常(しょぎょうむじょう)=すべての形成された存在は変化する。
②諸法無我(しょほうむが)=あらゆる存在は実体ではない。
③涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)=煩悩が鎮まると絶対の安らぎに到る。
「四法印」は、この②と③の間に「一切皆苦(いっさいかいく)=すべては最終的には自分の思いどおりにならないので不条理感の苦しみがある」を入れます。
この「三法印」または「四法印」をどう解釈するかは、派によってかなりの違いがあります。
ここでコメントしておくと、この授業では、話が複雑になりすぎないように、大乗仏教の1つの学派である唯識――などから学んだ私の――解釈に限定してお話ししています。
ですから、他にも相当たくさんいろいろな解釈がありうるということは、頭に入れておいてください。
私は自分の解釈が唯一だとも絶対だとも思わないように気をつけていますが、今のところ自分が学んだ範囲で「もっとも妥当ではないか」というくらいには思っています。
もちろん、他の方から教えていただいたり、自分自身の学びが深まったりして、解釈を変える可能性は十分にあるとも思っていますが。
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