智慧・覚りと慈悲

2005年12月07日 | 歴史教育
 さて、これから仏教の創始者であるゴータマ・ブッダのことをお話ししていきます。

 いろいろお話しする前に、まず最初にご紹介したいのは、次のようなブッダの言葉です。


 生きとし生けるもののすべてが安楽で、平穏で、幸福でありますように。いかなる生命、生物でも、動物であれ、植物であれ、長いものも、大きなものも、中くらいなものも、短いものも、微細なものも、少し大きなものも、また今ここにいて目に見えるものも、見えないものも、遠くにいるものも、近くにいるものも、すでに生まれたものも、これから生まれるものも、一切の生きとし生けるものが幸福でありますように。

                        (『スッタニパータ』「慈悲経」145~147)


 結論から先に言うと、仏教のエッセンスは智慧・覚りと慈悲にあると思います。

 そして、智慧・覚りは慈悲を生み出すものであり、慈悲は智慧・覚りに裏付けられたものである、という切っても切れない関係にあります。

 覚りといっても、それによって「生きとし生けるものすべてが安楽で、平穏で、幸福でありますように」という慈悲の想いが自然に湧いてくるのでなければ、ほんとうの覚りとはいえないでしょう。

 慈悲といっても、こだわりや無理のある、悪い意味での人間的な愛情・愛着では必ず問題が起こりますから、覚りに裏付けられていなければほんものになりません。

 前々回あげたようないろいろ多様にある「仏教」という文化・宗教現象は、つまるところ、慈悲と覚りにつながるかどうかで、どのくらい時代を超えた普遍的な価値があるかを量ることができる、と私は考えています。

 なるべくそこに焦点を絞って、話を進めていきたいと思います。


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コメント (4)
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