「唯識」の原語(のカタカタ表記)は、「ヴィジュニャプティ(認識する心)‐マートラター(ただ~のみ)」で、「ただ心だけ」という意味です。
この「ただ心だけ・唯識」というのが、学派のモットーであるわけです。
学派としては、「ヴィジュニャーナヴァーディン」といいます。
瞑想・禅定(ヨーガ)を深く探求したので、「瑜伽行派・ヨガチャーラ」とも呼ばれます。
ここから予想できるとおり、「唯識学」とは、禅定といういわば臨床体験を元にして迷いから覚りへという心の変容の体験をきわめて明快に理論化したものです。
私は、そういう意味で「大乗仏教の深層心理学」と評しているわけです。
しかし、面倒ですがここで一言いっておかなければならないのは、伝統的な唯識には2つの側面があり、ここでは、ほとんどその1つの面についてのみお話ししていくつもりだ、ということです。
まず1つは、今もいったとおり、心の変容についての理論という面で、現代的にいえば心理学的な側面です。
あるいは、哲学的には認識論的な側面といってもいいでしょう。
この面の唯識の洞察は、学んでみると現代の私たちにとってもきわめて説得的で、どんな心で生きればいいのかということについてすばらしい道しるべ・ヒントになります。
もう1つは、「すべての存在は心が作り出したものである」という唯心論的な存在論という側面です。
こちらは、哲学的には興味深いものがあるのですが、私たちの心の外に心とは独立にいろいろなものがあるということが常識になっている現代人には、なかなか理解・納得ができません。
そこで引っかかっていると、せっかくのすばらしい道しるべという面を活かすことがむずかしくなってしまうので、私は臨床的・実用的な有効性という視点から、この面についてはふれないことにしています。
「すべての存在はただ心が作り出したもの」ということはなかなか納得できなくても、「すべてのものがどう見えるかはただ心のあり方しだい」ということなら、ちょっと考えていくとすぐにわかってきます。
そして、「ただ心のあり方しだい」で悩んだり、苦しんだり、迷ったりしている人間が、「ただ心のあり方しだい」で爽やかで、楽しく、まっすぐな人生を送れるように変わることができる、ということをきわめて体系的・説得的に教えてくれるところが唯識のミソだ、と私は評価しているのです。
例えば、子どもたちのきゃっきゃっと遊ぶ声は、こちらの心がいらだっていると「うるさいもの」に聞こえ、こちらの心がおだやかだと「楽しそうでかわいいな」と感じられます。
おなじ「もの」のようでありながら、まるで別の「もの」のように感じられるのですね。
何よりも、おなじ――のように思える――人生が、「ただ心のあり方しだい」で、まるで変わってきます。
ですから、「心のあり方」をどうするかは人生の最重要課題だ、といってもいいでしょう。
心のあり方をどうすれば、いい人生が送れるか、これから唯識が教えてくれるすばらしいヒントを学んでいきましょう。
*写真は、先日、箱根ガラスの森美術館で見たヴェネチアン・ガラスのグラスです。
あなたの心には、美しいと見えるでしょうか。それとも、どうってことはないというふうに見えるでしょうか。
あなたの趣味(つまり心のあり方)しだいですね。

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