三性2:言葉と分別性

2006年02月07日 | 心の教育

 私たち人間は朝起きてから夜寝るまでほとんどの時間、言葉を使って生活しています。

 実際に話したり聞いたりしていないときでも、心の中で言葉がめぐっています。

 考えるのは、ほとんど言葉をめぐらせることで考えるわけです。

 「イメージ思考」というのもないことはありませんが、ほとんどはやはり言葉で考えるのです。

 そういう意味でいえば、人間は言葉漬け状態になっているといってもいいくらいです。

 そのために、言葉を使って認識した世界の姿がそのまま世界の本当の姿だという錯覚があっても、なかなかその錯覚に気づくことができません。

 そのあたりのことは、すでに「言葉の栄光と悲惨」という記事である程度触れました。

 世界中の言語のほとんどが、主語+述語、特に名詞・代名詞と動詞という仕組みで物事を捉えるようにできているそうです。

 進化のある段階から言葉を使い始めた人間は、つながりあって一つである宇宙の特定の部分に特定の「名前」をつけて認識するようになりました。

 一体であるとはいっても、全体としての宇宙はもちろん特定の部分と他の部分とを区別することはできるような姿をしています。

 ところが、名詞というものがそれぞれ分離独立しているために、名前を付けて認識すると、特定の部分が他の部分から分離独立して存在しているかのように思えてくるのです。

 例えば「私」は、これまでいろいろな点から見てきたように、私だけで生きていられるわけではなく、私ではないさまざまなものによって生きていることができるのです。

 水や空気や食べ物や太陽エネルギーなどなどは、常識的には「私」ではないように思えますが、実は私を私として生かしてくれているものであり、私の中に取り込まれた時には、私そのものの構成要素の一部になります。

 「私は私でないものによって私であることができる」というのが、不思議なように思えますが、事実です。

 ところが「私」という代名詞を使って自分を認識すると、まるで「私は私だけで生きている」というふうな気になりがちです。

 他のもの(者・物)に依らず、それ自体で分離独立しているものがあるように思うものの見方のことを、唯識では「分別性(ふんべつしょう)」といいます。

 この「分別性」こそ「無明」の正体なのです。

 そしてその分別性=無明は、言葉を使うという人間の本性に関わっているので、人間は無明から解放されるのがきわめてむずかしいわけです。

                    *

 補足的に少しだけ面倒なことをお話ししておくと、古典的な論理学では思考・言葉の法則として3つの原理をあげます。

 まず、「AはAである」という「自同律」または「同一律」と呼ばれるものです。

 これを私に当てはめると、「私は私である」ということになります。

 次は、「Aは非Aではない」という「矛盾律」です。

 これを私に当てはめると、「私はあなた(など私以外の人間)ではない」ということになります。

 さらに、「Aでも非Aでもないものは存在しない」という「排中律」です。

 これを私に当てはめると、「私でも私でもないものは存在しない」ということになります。

 こういうふうな言葉の法則によって私と私でない人を認識すると、下手をするとすぐに「私は私であって、あなたではない。私の利益は私の利益であって、あなたの利益ではない。私の利益でもあなたの利益でもないものは存在しない。利益は私のものかあなたのものかどちらかであって、1つになることはない」というふうな考えに陥りがちです。

 言葉の論理や秩序を元にした人間の認識は、ともすれば分裂や対立に陥る強い傾向をもともと持っているのです。

 こうしたことを見ていくと、しみじみ言葉を使う動物・人間というものの厄介さを感じずにはいられません。

 (このあたりについて詳しく知りたい方は、八木誠一『自我の虚構と宗教』春秋社を参照してください。絶版になっていますが、探せば古本屋で見つかると思います。)

 ……しかし、仏教の話はこういう暗い話で終わりではないのでしたね。

 続けて学んでください。 

 
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コメント (2)
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