久しぶりに『維摩経(ゆいまぎょう)』を比較的ゆっくりじっくりと始めから終わりまで読み直しました。
空と慈悲という一見矛盾するような概念が、なぜ大乗仏教では1つのものとして捉えられたのか、再確認したいと思ったからです。
古典を読むたびにいつも、埴谷雄高の「古典は成長する」という言葉を思い出します。
読んだときにはその内容を十分理解できたつもりだったのが、もう1度読んだときに「こんなことが書いてあったのか」と、読めてなかったことがいろいろあることを改めて実感するという体験を何度もしました。
今回も、「ここにはこんなことが書いてあった、あそこにはあんなことが書いてあった」と、さまざまな発見がありました。
そのひとつをご紹介したいと思います。
これは維摩居士・ヴィマラキールティが、魔神パーピーアスからいったん天女2千人を申し受け、教えを伝えた後で、魔宮に帰すことにした時に、彼女たちの質問に答えた言葉です。
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すると、これら天女たちが、ヴィマラキールティを拝してから申しました。「家長さま、魔宮に帰ってから、私どもはどのようにして住んだらよいのでしょう」。
彼が答えました。
「諸姉よ、尽きることのないともしび(無尽燈)と名づけられる法門がある。それを学んで努力しなさい。
それは何か。諸姉よ、一つの燈から百千の燈が点火されても、かの燈(の明るさ)が減るわけではありません。
それと同じく、一人の菩薩が百千の多数の人々を菩提の中に導き入れても、かの菩薩の(菩提)心の記憶は減らないし、減らないだけではなく増加するものです。
同様に、すべての善の法が他に対して説かれたとき、説かれるに応じて、それらの善は増大する。これが無尽燈と名づけられる法門です。
おまえたちがかの魔宮に帰ったなら、無量の天子や天女たちが菩提の心をねがうようにしなさい。そのようにしておまえたちは、如来の恩をよく知る者となり、あらゆる衆生を(真に)生かすこともなるでしょう」。
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自分が学んだことを人に伝える、伝えられた人がまた他の人に伝える……というふうにして、真理の燈が果てしなく伝えられ広がっていき、魔の住む世界を明るく照らし浄化していく、というのは、実に美しいイメージです。
インターネット-ブログの世界は、全体としては「匿名性」という隠れ蓑――そこから誘発されがちな「誰も見ていない」、「誰にもばれない」という気持ち――のお陰で、人間の煩悩が恐ろしいほど拡大再生産されて広がっている世界のように私には見えます。
内面の煩悩の浄化が困難であることのおそらく何万倍も、インターネット上に流れている煩悩情報の浄化は困難でしょう。
それは、ほとんど不可能にさえ見えます。
しかし、「ほとんど」は「まったく」ではありません。
ほとんど不可能かもしれないがまったく不可能ではないと信じるので、私はあえて自らから始めてすべての煩悩の浄化に挑戦したいと願っています。
それはもしかしたら、ドン・キホーテ的な試みなのかもしれません。
しかし、大乗の菩薩はドン・キホーテ的であることをあえて買って出た存在なのではないでしょうか。
大きな願いの②は、「つまらない悩みはぜんぶなくしたいよね(煩悩無尽誓願断、ぼんのうむじんせいがんだん)」ということです。
それは、一人の菩薩だけでは不可能に決まっていますが、真理の燈が百-千-万-百万-千万……六十数億と広がっていけば、可能になります。
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