八識2:六識とマナ識

2006年02月16日 | 心の教育

 私たちは、熟睡している時、気絶している時、ひどく泥酔している時を除くと、自分で自分のことがわかっているという心の状態にあります。「意識」ですね。

 意識は、五感を通じて入ってくる外界からの刺激を認識します。

 目で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、体でさまざまな身体感覚を感じます。

 意識がぼんやりとしていると、目で見ていたり、耳で聞いていたりしても、見聞きしているものが何だかわからないということがあります。

 意識は、五感を通じて入ってくる感覚をとりまとめて、それが「何」なのかをはっききり判断するという役割をしています。

 つまり、「わかる」というのは、まさに「分かる」で、分別知なのです。

 意識は、自分が誰・何だか分かっており、外側のものが誰・何だかを分かるという働きをしています。

 意識は、いつも分別しているといっていいでしょう。

 仏教では、こうした五感+意識を「六識」と呼んでいることは、すでにお話したとおりです。

 原始仏教から大乗仏教も空の思想までは、人間の心を「眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)という「六識」で捉えていました。

 しかし、修行中に、例えば「無我」や「空」ということをいくら意識で「分かる」ことができても、それは本当に「覚る」こととは違うという体験をした修行者たちの中から、六識で捉えきれない人間の心のもっと深く暗い部分を想定するほかないという自覚が出てきたのです。

 一切は空である以上、執着してもしきれませんし、する必要もありません。

 ところが、そう学んでも、自分の心の奥から自分や自分の大事なものに執着する気持ちが、なぜか、どうしても、湧いてきます(よね? みなさんはいかがですか?)。

 執着する自分も執着されるもの(者・物)もみなもともと空なのだ、といわれても実感は湧かないのです。

 心の奥にあって、自分と自分でないものを分けておいて、自分や自分にとっていいものにこだわる思いを湧き起こさせる領域のことを、唯識は「マナ識」と呼んでいます。

 サンスクリット語の「マナ」は「思い量る」という意味ですが、「マナ識」は特に実体としての自分があると思い量って、それに執着する心です。

 意識で簡単にコントロールすることのできない、煩悩を湧き上がらせる心の奥深い領域について、唯識は驚くべき洞察を加えています。

 私の知るかぎり、世界の宗教や思想の中で、こんなにも的確に人間のエゴイズムの深い源泉を探り当てたものは、他には見当たらないようです。


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コメント (3)
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