たいていの人は、毎日、自分が誰であるか、何をすべきか、社会というものがどういうものであるか、等々、ちゃんとわかっているつもりで生きています。
しかし、そういう「わかっているつもり」が、深い意味では「無明」である、とゴータマ・ブッダは教えていました。
そもそも「わかる」というのは、「分かる」ということで、物事を分けて他のものと違うと「別ける」ことです。
例えば、向こうから歩いている人を見て、誰だかわかるということは、その人が男ではなく女であったり、少女ではなく大人の女性であったり、他人ではなく友達だというふうに分けて違いがわかるということです。
しかも、そういうわかり方の背景にはさらに、彼女が人間であって犬でも猫でもなく、道路でも建物でもない別のもの(者)であるという分け方があります。
そういうふうに私たちがふだんやっているものごとを別々のものとして分けて「わかる」という心の働きを仏教では「分別」といいます。
しかし「縁起」の解説の時にお話ししたように、実はすべてのものはつながって起こっているのであって、分かれて別々に存在しているのではありません。
例えば女性は、女性としてのみ分離独立して存在しているわけではなく、男性と同じ人間という関わりがあったうえで、男性と区別できる異なった性として存在してるわけです。
もちろん区別はあるのですが、分離はしていません。
またその女性は、もちろん道ではありませんが、道との関わりがあるからこそ歩くことができるわけです。
そしてその女性の歩いている道は地面の一部であり、○○町の一部であり、○○市の一部であり……と、他の土地とつながっています。
またその女性は、空気ではありませんが、空気を吸うことによって存在することができるのです。
……というふうに、よく考えるとすべてはつながり・関わりによって存在している、つまり縁起的に存在しているのでしたね。
そして、私たちが普通にしている「分別」は、深い見方からすると「無明」なのでした。
唯識ではそういう私たちの「分別」という心の働き方を、1つのものの見方のパターンとして「分別性(ふんべつしょう)」あるいは「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」と呼んでいます。
それに対して、つながり・関わり・縁起を見るものの見る見方を「依他性(えたしょう)」あるいは「依他起性(えたきしょう)」といいます。
そしてさらに、すべてのものがつながり-つながり-果てしなくつながっていて、結局は一つであるというほかない事実を見る見方を「真実性(しんじつしょう)」あるいは「円成実性(えんじょうじっしょう)」といいます。
(前のセットは真諦三蔵の訳語、後のセットは玄奘三蔵の訳語です。前のセットのほうがわかりやすいので、この授業では以後、そちらを使うことにします。)
以上のような、分別性、依他性、真実性というものの見方の基本的な3つのパターンを取り出して、迷いのものの見方と覚りのものの見方の違いを明らかにする唯識独特の理論を「三性説(さんしょうせつ)」といいます。
次から、この「三性説」について、もう少し詳しく見ていきましょう。

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