「人の好き嫌いをしてはいけない」とか、「人を分け隔てしてはいけない」とかいうのは、たいていの人が教わって知っています。
しかし知っているからといって、実行できるかというとなかなかできないのではないでしょうか。
してはいけないと思いつつ、会ったとたんにその人のことを「いい感じ」とか「嫌な感じ」とか感じてしまいます。
つまり、好き嫌いをしているのです。
身なりや見かけや肩書や地位などで相手への態度を変えるのはあまりいいことではないと思いつつ、ついつい態度が変わってしまいます。
分け隔てをしてしまうのです。
こういうふうな、なぜか、ついつい、どうしても、思わず、思わず知らず、わけもなく、わけもわからず……「してはいけないのに、してしまう」とか「しなければならないのだが、できない」という体験は誰にでもあるのではないでしょうか。
このことは、人間の心に、してはいけないとかしなければならないと思い、それはなぜなのかわけがわかるという部分と、思わずしてしてしまう、なぜかできないという部分があることを示しているといっていいでしょう。
西洋のフロイド以降の心理学は、自分でわかっている心の部分を「意識」と呼び、自分でもわからない心の部分を「無意識」と呼んでいます。
「わかる」とか「思う」という言葉が示しているように、意識は理性や思考や意思にかかわる部分です。
それに対して、どうしてもやりたかったり、なぜかできなかったり、わけもなくそういう気分になったり、つい感じてしまったりというふうに、無意識は欲望や気分や感情にかかわる部分です。
こういうふうに人間の心が意識と無意識の部分で成り立っているということをはっきり理論化したのは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、オーストリアの精神医学者フロイドの「精神分析」だ、というふうに一般的には思われてきました(エレンベルガー『無意識の発見』弘文堂、参照)。
しかし、「無意識」という言葉は使われていないにしても、2,3世紀、唯識学派の人々は、人間には自分でもよくわかっていない、意識的にはコントロールできない心の深い部分があることに気づいていました。
修行のプロセスで、「すべては一つでありつながっているというのが世界の本当の姿だ」、「他と分離した実体としての自分があると思うのは無明・錯覚だ」と師から教えられ、学んで知って、納得しても、なぜかどうしても実感は湧かない、日々そういうことに基づいて実行することはできない、という深刻な体験から、そういう気づきが生まれたのだと考えていいでしょう。
分別知は無明だと分かっても、分別知をやめることができないのは、分別知を働かせる力が意識とは別の心の奥深いところにあるからだ、と捉えたのです。
4,5世紀、唯識学派では、そういう心の奥底には「マナ識」と「アーラヤ識」と呼ばれる領域があるという、いわば「深層心理学」が、世親・ヴァスバンドゥによって完成させられています。
西洋・フロイドに先立つこと1500年あまり前に、東洋ではすでに「無意識の発見」がなされていたのです。
これは驚くべきことですし、少しは誇ってもいいことではないでしょうか。
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