私たちはふだん、「自分のことは自分がいちばんわかっている」、だから「自分のことは自分で決められる、自分でコントロールできる」と思いがちです。
そして、こういう気持ちは、行き過ぎさえしなければ、健全に生活していくためには必要なものです。
そういう「わかっているつもりの自分」を、心理学ではおおまかにいうと〈意識〉とか〈自我〉とか呼んでいます(枚数の関係で以下すべておおまかにいうと、です)。
しかし、人生でいろいろな出来事に出会うと、「自分でも自分のことがわからなくなった」とか、「どうすればいいのか、自分のことを自分で決められない、自分をコントロールできない」という心理的な混乱に陥ることがあります。
それは、外側の出来事が原因である場合もありますが、心の内側の出来事による場合もあります。
「抑えても抑えても、なぜか、不安が湧き起こってくる」とか、「やめたほうがいいとわかっているのに、どうしてもやめられない」とか、「思うまいと思うのに、思ってしまう」とか、自分で自分をコントロールできないことがあります。
そういう時の、抑えたり、やめたほうがいいとわかっていたり、思うまいとする心の部分が〈意識〉で、なぜか湧き起こってきたり、どうしてもやめられなかったり、思ってしまうという働きをさせるのが〈無意識〉だと、これもおおまかに考えていいでしょう。
つまり人間の心にはどうも、自分でわかっているつもりの〈意識〉だけでなく、自分でもわからない〈無意識〉の領域があるらしいのです。
自分の心でありながら、自分にわからない、自分の思いどおりにならないというのは、少し不気味であり、とても不都合なこともあるのですが、それが事実だとしたら、しかたありません。
現代の深層心理学の創始者フロイドは、人間の心にはそうした深みがあることをはっきりと理論化した近代最初の人です(ある程度の理論化をした先駆者はいます)。
しかし、フロイドは――特に初期から中期くらいまで――無意識はその人個人の心の領域だと考えていたようです。
それに対して、一時期は歩みを共にしていたユングは、人間の心の深みには、その人個人の体験とその記憶とは思えない領域があると考えました。
家族や先祖、民族、人類などのレベルにわたって共有している心の深みがあるというのです。それを〈集合的無意識〉と呼びました。
その点での理論的な対立のために二人はやがて訣別します。
例えば夢ですが、もちろん個人の昼間の体験が単純に再現されたり、いろいろ形を変えて現われたり、個人の心の奥にあった欲望を実現したりするという夢もあります。
しかし、ユングは、それでは説明のつかない、不思議な、象徴的な夢を見ることがあるといいます。
それは彼の体験に基づいていて、三、四歳頃、一生涯ずっと自分の心を奪うことになった夢を見たというのです。
ユングは、スイスのプロテスタント・キリスト教の牧師の子どもで、そういう文化背景では、当然、神は天にいるわけです。
ところが夢の中で、地下道の階段をずーっと降りていくと、そこに男根のようなかたちをした神がいて、それを見て彼が怖がっていると、お母さんの声が「そうなの、よく見てごらん。あれは人食いなんだよ」というのを聞いて、汗びっしょりになって、目を覚ましたといいます。
それから、同じ夢を見はしないかと、毎晩寝るのが怖いという体験をしたというのです。
そういう「地下の男根のようなかたちをした神」というイメージは、キリスト教の牧師の子で三、四歳という年では、どこかで何かを見たり、教えられたりしたという、個人的体験から来るとは思えないというわけです。
ユングは、幼時からこうした夢やイメージが心の奥から湧いてくるという体験が重なり、それが何なのか説明しなければ、発狂するかもしれないという心の危機に、人生で何度も遭遇し、やがてそうした夢やイメージとそっくりのものがキリスト教以外の世界の様々な神話にあることを発見していきます。
そしてそうした神話、夢、イメージを生み出す、個人性を超えた心の奥底の領域を〈集合的無意識〉と呼ぶに到ったのです。
そして、人生とはそうした集合的無意識と意識とが様々な葛藤を繰り返しながら、やがて一つに統合され、その人固有の心のあり方を作り上げていく〈個性化〉のプロセスである、と考えるようになったのです。
そうしたフロイドやユングの無意識の捉え方=深層心理学は、二十世紀に誕生したものですが、不思議なことに早めに見て二、三世紀のインドにはすでに、ある意味での深層心理学が確立されていました。
大乗仏教の理論の一つで、「唯識学」といいます。
特に理論的に完成された四、五世紀には、人間の心の中には、自分でわかっているつもりの五感と意識以外に、もっと深い心の奥底があることが理論的に捉えられています。
簡単にいうと、自分だけで存在できる自分というものがあるという思い込みとこだわりの領域=マナ識と、いのちを維持しそれにこだわる心の底の領域=アーラヤ識があるというのです。
私たちには、あまり自分にこだわるのはよくないとわかっていても、なぜか、どうしても自分にこだわるという心の働きがあります。
つまり、意識で理解し、意思的にコントロールしようとしても、どうにもならないエゴの働きが、心の奥にあるようです。おおまかにいうと、それが〈マナ識〉です。
そしてさらに、生命というものは生まれて、育ち、老い、死ぬのが自然なことだといくらわかっていても、どうしても、それを自然に受け容れることができず、生命に執着し、死ぬのを恐れる心があります。
その源になっているのが〈アーラヤ識〉です。
このアーラヤ識は、意識や身体がなくなっても、前世から現世、そして来世へと輪廻していくものだと考えられています(説明するスペースがありませんが、これは「魂」ではありません)。
こうして見ていくと、深層心理学の心の捉え方の意識と個人的無意識と集合的無意識という図式と、唯識学の意識とマナ識とアーラヤ識という心の捉え方は、どちらも三つの層から成っていて、これは単なる偶然だとは思えません。
もちろん、いろいろな違いはあるのですが、筆者は、これは同じ〈心〉というものを、それぞれやや別の角度から見たために出来た理論上の違いであり、矛盾・対立するものではなく、人間の心をより深く、より豊かに理解する上で補い合うものではないかと考えています(詳しくは拙著『唯識のすすめ』NHKライブラリーをご覧下さい)。
自分でわかっている部分だけが自分の心ではなく、自分の知らない、そして家族や先祖や民族や人類にまで連なり、前世から来世にもつながった、心の深みがあるということは、考えようでは恐いことです。
しかしそれは、見方しだいでは、人間が狭い個人性や現世だけに限定された存在ではないことを示しているという意味で、畏怖を感じざるをえないほど人間というものの不思議さ、豊かさ、深さを感じさせてくれることでもあります。
〈集合的無意識〉や〈アーラヤ識〉という考え方を知ることは、自分の心の測り知れない深みをかいま見ることです。
そして、かいま見た後、恐さのあまり目をそらすか、それとも惹かれて見入るか、それを決めるものは何なのでしょうか。
それ自体が、集合的無意識・アーラヤ識なのかもしれませんし、〈縁〉ということなのでしょう。
*
ようやくレポートの採点がすべて終わり(ほっ)、唯識の本格的な授業に入るつもりだったのですが、また別の用事ができました。
must化はしないつもりなので、無断休講しようかと思ったのですが、なんとなく落ち着かないのと、ふと前に書いた唯識のポイントに関わる文章(’02.5 『東京福祉会だより』)をみなさんに読んでもらいたいなと思ったのとで、今日は、以上、転載しました。
明日は、休講かもしれません。よろしく。
![にほんブログ村 哲学ブログへ](http://philosophy.blogmura.com/img/philosophy100_33_2.gif)
人気blogランキングへ