私と親とどちらが先にいたでしょう?
あまりにも当たり前のことですが、私よりも親たちのほうが先にいました。
親たちとその親たちのどちらが先にいたでしょう?
もちろん、親たちの親たちです。
私よりも先に親やその親やご先祖さまがいました。
私と私の食べる植物や動物のどちらが先に存在していたでしょう。
植物や動物ですね。
何度も繰り返してきたことですから、ここでは細部は省略しましょう。
ともかく、それらの無数のつながりの中で=おかげで、私が生まれてくることができた、私が私になることができたわけです。
つまり、私が生まれてくる前に、私が生まれる条件になっているさまざまなもののつながりが先にあったのです。
個々のもの(者・物)が存在する前に、つながりが存在しています。
これは、ふだん私たちが思ったり、議論したりしないこと、つまり不思議なことで、でも気づいてみると確実な事実ですね。
個々のものの存在に先立つつながりの世界、あるいはそういう世界を見るものの見方を「依他性(えたしょう)」というのでした。
ばらばらを見る見方=分別性に対して、つながりを見る見方=依他性です。
依他性の世界が先立つ事実である以上、そちらを先に見るものの見方のほうが正しいといわざるをえません。
ばらばらを見る前につながりを見るのがより正しいものの見方だ、というのが仏教の基本的な主張のひとつだといっていいでしょう。
個々のもの、特に私から始めてものを見たり考えたりするのをやめて、まずかかわり・つながりからものを見たり考えたりできるようになってくると、覚りの世界に大きく近づいたことになります。
ここで、改めて私を私にしてくれている実に無数のかかわり・つながりのことを、できるだけ詳しく思い浮かべてみてください。
そうすると、きれいごとや儀礼や強制的倫理としてではなく、自然な認識に基づいた自発的な思いとして、「私の自由でしょ」、「オレの勝手だろ」ではなく、「おかげさま」という言葉が心に浮かんでくるのではないでしょうか?
依他性というのは、わかりやすくいうと、事実としての「おかげさま」の世界にしっかりと気づくということです。
昔は若気の至り――自分の性格のせいと戦後個人主義教育のせい――で、「私は私だ(哲学用語でいうと「実存」)」とか言っているのがかっこよくて、「おかげさま」などという虚礼のセリフなんて下らないと思っていたことが、ほんとうに恥ずかしくなります。
「おかげさまです」――それにしても日本語にはいい言葉があるなあ、と思うようになったのは、いい意味で「歳のせい」だと思います。
いい取り方なら、歳は取るものですね。
*写真:日当たりのいいところではもう水仙が咲き始めました。
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