私たちはふつうに育つと、「自分は自分だ」と思うようになりますが、ちゃんと順を追って教えられると、自分だけで生きていられる自分などいないということ、つながりによって生きている、生かされているということ、縁起ということはわかります。
また、さらにすべてはつながり-つながり-つながりというふうになっているのだから、結局は一つだということも、理論として頭ではわかります。
しかし、実感はなかなか湧いてきませんし、実感に基づいた心からの実践もできません。
どうしても、私は私、人は人、物は物というふうに思えてしまうのです。
しかも、それぞれがまるで分離・独立して存在する実体であるかのような気がしてしまいます。
いくら、すべては実体ではない、「無我」である、といわれても、そうは思えないという働きが心の奥にある、と唯識は洞察したのです。
さらに驚くべきことは、その働きをさらに詳しく正確に分析していることです。
それは、すべての現象的な煩悩の根なので、「根本煩悩(こんぽんぼんのう)」と名づけられています。
その根本煩悩の働きは4つに分類されています。
まず、何よりもすべてのものが非実体=無我であることについてまったく無知です。
それを〔無〕我についての愚かさという意味で「我癡(がち)」といいます。
これは、修行者たちが、意識で「無我」だと学ぶ前はもちろん、学んで分かっても、どうしてもそれを実感しているとは思えない反応が心の奥から湧いてくる、という自分たちの姿を実に厳しく反省したところから生まれた概念だといっていいでしょう。
「我癡」というコンセプトは、それまでの仏教用語でいうと「無明」に当たりますが、自己洞察がいっそう深められています。
つまり、人間の無明や煩悩といったものが、意識の世界で片づくようななまやさしいものではなく、無意識の世界に深く根を下ろしたきわめて厄介なものであることが、はっきりと洞察されているのです。
私は、マナ識、特に「我癡」というコンセプトに出会った時、なぜ、人間はほとんどエゴイズムから自由になれないのかという、長年の疑問がすっきりと解かれたような気がしました。
人間のエゴイズムの源泉は、心の奥深くに根を下ろした、自我の非実体性への徹底的な無知=我癡なのだ、そうか、そうなのだ、と。
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