ロジャーズ派の意味と限界

2005年12月14日 | メンタル・ヘルス

 サングラハ心理学研究所の昨日(13日)の講座は、「聴くこと――コスモス・セラピーの視点からカウンセリングの基本を学びなおす」の最終回でした。

 そこで話した内容のレジュメを公開しておきたいと思います。

 これは、批判のための批判や敵対的批判ではありません。

 もし認識不足、まちがいがあれば、当然のことながら訂正する用意があります。

 関係者の方の生産的なコメントをいただけるとうれしいと思っています。

 ロジャーズ派の意味と限界

 人間の潜在力・成長可能性への信頼は、人間性心理学全体が共有している。

 感情に焦点を当てた傾聴-共感的理解によってクライアントが体験するのは、マズローの階層構造理論でいうと、所属と愛の欲求、承認欲求のある程度までである。

 もっとも典型的・理想的に行なわれた場合、それらの欲求が適度に満たされることによって癒され、自己成長欲求に到りうる。

 しかし、所属と愛の欲求や承認欲求が実際の社会生活の中で十全に満たされるためには、それらを満たしうるような適切な行動が必要であり、適切な行動には適切な知識と考え方(思考)が必要である。

 ロジャーズ派では、無条件に感情を受容することに集中しすぎて、そうした学習過程を組み込んでいない。

 そのため、深い体験をすることなしにただ「親身になってグチを聞いてもらう」ことで一時的に気が楽にはなるが、問題解決はせず、カウンセリングが長引くだけという結果に終わることも多い。

 また、日本には自己決定-自己責任という文化的な風土がないので、深い体験をしたとしても、その結果、適切な思考、知識、行動の自己学習が自発的に行なわれるということが起りにくく、おなじくカウンセリングが長引きがちである。

 クライアントの自己改善・自己学習意欲を引き出し、かつセラピストのインストラクションを受け入れる気になってもらうには、「心の絆(ラポール)」を形成する必要があり、そのための導入部でのベースとして、傾聴-共感はできるだけあることが望ましい。

 しかし、知識・思考・行動が適切なものに変容するために不可欠なのは、適切な事柄の「学習」である。

 論理療法は、感情はそれ自体で独立して起こるのではなく、自明化・自動化した思考(belief)に大きく影響されて起こることを発見した。

 そこで、もちろん感情を大切にはするが、それに焦点を当てるのではなく、思考・思い込みに焦点を当て、働きかけ、変えることで、不健全な否定的な感情を健全なものに変えるという教育―学習的な技法を開発している。

 もちろん心理療法に万能薬があるとは思えないが、脳の病理がない・または少ない中程度までの心理的な不調の治癒の方法としては、比較的短期間でかなりの効果があがる有効な方法だと評価できる。

  自己肯定のための条件・4つの層

 個人レベル
 社会集団レベル(家庭、友人グループ、会社など)
 民族・国家レベル
 自然・宇宙レベル

 人間性心理学は、主に個人としての人間に焦点が当たっており、一部、集団における人間を重視するものもあるが(エンカウンター・グループ、グループ・ダイナミックス、アドラー心理学etc)、民族・国家、自然・宇宙レベルは十分視野に入っていない。

 その点を補うものが、サングラハにおける仏教の学びとコスモス・セラピーの組み合わせである。


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縁起の解釈について

2005年12月13日 | 心の教育

 初心者の方には無用なことですが、ここですでにそうとう仏教の知識のある方のための補足として、「縁起」の解釈についての私の考えを簡単に述べておきましょう。

 「釈尊は縁起の理法を覚った」という場合、原始仏典では量的には明らかに「十二縁起」のほうが多く出てきます。

 そこで、「釈尊は十二縁起の洞察によって覚ったのだ」と解釈される方が多いのですが、私にいわせていただけると、老死(の苦しみ)の原因が「無明」にあると知的に洞察したところで、それが心の奥底までの「明=覚り」に自動的になるとは思えません。

 瞑想体験に基づいていえば、心の奥底からの「明=覚り」を体験してはじめて、「無明」がまさに「無明」だったとわかるのです。

 そして、そういう「明=覚り」の体験をした後で、分別を超えたその体験をあえて言葉で表現したのが、「すべては分離していない。つながって一つである」という意味での「縁起」というコンセプトだ、と私には思えます。

 だからこそ、釈尊は、それが時代も国も民族も超えた普遍的な宇宙の「理法」であると主張できたのではないでしょうか。

 臨床的な視点があるとすぐわかるはずですが、「老死」の原因が「無明」だと知的にわかったところで、「老死(への不安や恐れや不条理感)」がなくなったりはしません。

 「老死(への不安や恐れや不条理感)」がなくならないような、単なる知的洞察は「覚り」と呼ぶにはあまりに浅いものです。

 「縁起」に関する仏教文献学における議論は、臨床的視点を導入することによって、はっきりと決着がつくのではないでしょうか。

 「老死(への不安や恐れや不条理感)」の「滅」とまでいかないまでも、少なくともそれがそうとう軽減されたと感じるくらいの瞑想体験をすることなしに、瞑想から生み出された仏陀の思想を論じることは、一度も海を見たことのない人や、行く道の途中にいてまだ海を見ていない人が、海のすばらしさについて知ったふうに語るのよりももっと当てにならない話だ、と私には思われます。

 「八正道」とりわけ「正定」なしの「縁起」の解釈や議論はまったく意味をなさない、と私は考えています。

 しばしば行なわれてきたらしい仏教のさまざまなコンセプトに関する議論に参加しないのは、単に私が仏教の専門家でないからではなく、そういうわけなのです。

 しかし最近、海を見たことのない人の「海談義」のような仏教論がかなりの影響力を持っているようで、それは日本の精神状況にとってはかなり害のあることだという気がしてきていますので、そのうちあえて批評を始めるかもしれません。


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特別講座のお知らせ

2005年12月12日 | 心の教育

*コスモロジー講座が進行しています。悲惨な事件があるたびに、コスモロジーによる倫理の再構築は急務だと改めて感じます。残り2回ですが、ぜひ、多くのみなさんに参加していただきたくて、再度、最新記事にしました。

特別追加講座:宇宙と私の大きな物語―宇宙カレンダー第Ⅵ版を語る

 宇宙137億年の歴史を1年に縮尺した「宇宙カレンダー」は、宇宙というもっとも大きなものについての物語であるだけではありません。

 なぜ私は生きているのか、なぜいのちは大切なのかといった、根源的な問いに答えてくれる、宇宙と私の関わり・つながりについての物語でもあります。

 そしてその物語は、かつての神話的な物語とちがって、現代科学の成果をベースにしていますから、信じ込む必要はなく、疑い検証することができ、しかし学ぶと多くの人がきわめて理性的・合理的に納得することができるかたちになっています。

 しかも、「137億年かけて進化し続ける宇宙」という宇宙像・コスモロジーは、ともすれば落ち込みそうになるネガティヴなことの多い時代に生きている私たちに、大きなスケールでの希望をもたらしてくれます。

 さらに何よりもこのコスモロジーは、今崩壊しつつある日本社会の倫理性を根源から再構築する力を持っていると思われます

 当研究所主幹は、すでにあちこちで繰り返し語ってきていますが、いろいろな事件に表われた日本の精神状況の荒廃を実感するにつけ、日本社会全体に浸透するまで何度でも語り続ける必要がある、と覚悟を決めています。

 今回は、「宇宙カレンダー」に沿って、データや解釈や語り方にさらなる工夫を加えたヴァージョン・アップ第Ⅵ版です。

 日本と日本人を何とかしたいと真剣にお考えのみなさん、ぜひ、お出かけください

講師 岡野守也:サングラハ心理学研究所主幹

日程 2005/10/25、11/8、11/22、12/6、12/20、1/10
火曜日6回 18:45から

会場 ヒューマン・ギルド03-3235-6741 新宿区天神町6番地 Mビル3階
   地下鉄東西線「神楽坂」駅 矢来町口下車 徒歩約3分

受講料は原則として、それぞれ1回一般3,500円、会員3,000円、専業主婦他2,000円、学生1,000円に×6回分ですが、都合で毎回出席が難しい方は、単発受講も可能です。

テキストは必要に応じてコピーを配布します。

問い合わせ、申し込みは、サングラハ心理学研究所 岡野宛に、住所、氏名、年齢、性別、職業を記入の上、E-mail:okano@smgrh.gr.jpか、Fax.0466-86-1824で。
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縁起の理法2

2005年12月12日 | 心の教育

 「縁起」の第2は、「十二縁起・十二因縁」と呼ばれるものです。

 系統のちがった伝承では、ゴータマ・ブッダは、菩提樹の下で、「すべて結果があるものには原因があるはずで、その原因をたどっていくと、最初の原因にたどり着くはずだ」(「因果の法」)と考え、「なぜ、老いや死という苦しみがあるのだろうか…それはそもそも生があるからだ…」と思索・瞑想をしていったといいます。

 そして、結果から原因へと遡って、「老死(の苦しみ)があるのは、生(しょう)があるからだ。生があるのは、有(う)があるからだ……取(しゅ)→愛(あい)→受(じゅ)→触(そく)→六入(ろくにゅう)→名色(みょうしき)→識(しき)→行(ぎょう)→無明(むみょう)」と瞑想・洞察していったのです。

 これを「逆観」といい、あとで整理した順を「順観」といいますが、ブッダは、逆観と順観を繰り返して洞察を深めていかれました。

 「無明」とは、心の表面にはびこり、さらにその根っこは心の奥底に潜み澱んでいる根源的な無智(無知ではなく)のことです。

 すべてのもの(者・物)を分けてばらばらに見るのです。

 そして特に自分と自分でないものを分けておいて自分にこだわり、いのちといのちでないものを分けておいていのちにこだわります。

 そういう心は、ほとんどすべての人(凡夫)のなかでしっかりと働いており、悩みの源になっています。

 無明があると、実体(これは後でくわしく説明します)としての自分があるという妄想・構想を起こす力が働きます。それを「行」といいます。

 続いて、そういう無明に基づいた構想力によって、「心」つまり「識」の働きが起こります。これは、「実体としての自分があると思う潜在的な心」といっていいでしょう。

 そしてそういう自分があると思う心が生じると、当然のことですが、外側に自分とは別の分離した「外界」があるように思えてきます。それが「名色」です。
 つまり個別の「名前」に対応した分離した個別――個々別々、ばらばら――のものが「色や形」をもって存在しているように見えてくるわけです。

 続いて、自分と外界は分離しているのだという思い込みを基にして、五つの感覚器官と意識=「六入」が働きます。

 さらに、外界の対象と感覚器官と意識との「接触」=「触」が起こります。

 それが「感受」されることを「受」といいます。

 実体としての自分が存在するという錯覚に基づいて心と外界の接触や感受が行なわれると、外にある対象は自分ではなくて、しかもそれなしには生きられませんから、いつも自分に足りない何かが外にあり、たえずそれを獲得‐所有しないと生きていけないという、激しい喉の乾きのような欠乏感が生まれます。それを「愛」あるいは「渇愛(かつあい)」といいます。

 そして欠乏感・渇愛の気持で人や物に接して、少しでもいい思いをするともうそれに執着するようになってしまう。それが「取」です。

 そういう無明から取までの心の働きを基に、宇宙と一体でなく、他の人や物とつながっておらず、流れでもない、実体としての生命=「有」が妄想・構想されます。

 そして、それを基にして誕生があり人生が営まれていきます。「生」です。

 そういう無明・妄想と執着に基づいた生き方をしているかぎり、「老い」と「死」は、いのちの自然なプロセスとして受け容れるどころか、絶対に受け容れられない苦痛、人生の根本的な不条理と感じられることになります。

 ブッダにとって、生理的な意味での「老死」そのものではなく、心理的な「老死」への不安や恐れや不条理感こそが問題だったと思われます。

 そうした「老死」の苦しみの原因論が第2の意味での「縁起(または因縁・因果)」であり、その苦しみを超える体験をあえて言葉にしたのが第1の意味での「縁起」である、と私は捉えています。


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事件と報道

2005年12月11日 | いのちの大切さ

 幼い女の子が殺害されるという事件が3件も連続で起こりました。

 本当に心が痛みます。

 たまたまふだんあまり見ないニュースとバラエティの番組を見ていたら、これらの事件が報道されていました。

 そして、よく聞く

 「今、日本の大事な何かが音を立てて崩れていっているような気がします」といったセリフと

 「なんとかしなければならないと思います」いうセリフが語られていました。

 こういうセリフを聞く度に、ある種のむなしさと怒りと非常な残念さを感じます。

 「崩れていこうとしているのは、何かといったあいまいなものではなく、社会全体としての倫理性の水準ではないか」、

 「なんとかといった漠然としたことではなく、しなければならないのはコスモロジーの再構築とそれによる社会全体の倫理性の再構築以外の何だというのだ」

と思ってしまうのです。

 もちろん、当面の対策、子どもの送迎、地域の力による監視体制、防犯カメラなどなど、できるだけの工夫は必要です。

 しかし、そうした外面の対策に加えて、何よりも長期的展望による内面の再構築に向けた本格的な対策がなされなければ、事態は日を追って悪化するほかない、と私には思えるのです。

 これは単なる抽象論、理想論にすぎないのでしょうか?

 みなさんは、どうお考えですか?


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『十七条憲法』の授業

2005年12月10日 | 歴史教育

 大学の授業も残り少なくなってきました。

 後3回、論理療法の話と聖徳太子『十七条憲法』の話とどちらがいいかと希望を書いてもらうと、1つのクラスでは大多数が『十七条憲法』でした。

 これは私にとってうれしい予想外でした。

 唯識を中心に仏教の話をした後で、

 「ところで、こうした深さと普遍性のある仏教を日本に導入した責任者は、聖徳太子です。

 そして太子は、驚くほど深く仏教を理解していたんです。

 その仏教精神を核に、人と人とが平和に、人と自然が調和して暮らすことのできる「和の国・日本」をみんなで創ろうという呼びかけ・国家理想を語ったのが『十七条憲法』なんです。

 これが日本の最初の「憲法」です。

 明治憲法や現行憲法の前に、いわば日本の「国のかたち」・国家理想として最初にあったのは、『十七条憲法』です。

 そもそも「憲法」という言葉自体、明治憲法を作ったとき、英語では constitution に当たる言葉をどう訳すかを考え、『十七条憲法』から「憲法」としたんですね。

 ここに語られている国家理想を知るということは、日本人としてきわめて正当な国民的アイデンティティを確立することにつながるので、こっちをきみたちに伝えておきたいという気もしているんだけどね。」

と話したことに反応してくれたのでしょう。

 昨日から始めましたが、学生たちは非常に感動して聞いてくれたようです。

 彼らはやはり「日本の子」、精神的な意味での「聖徳太子の子孫」なんだなあ、と感じたことでした。

*これから話していく詳しい内容については、拙著『聖徳太子『十七条憲法』を読む』(大法輪閣)を参照していただけると幸いです。


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縁起の理法1

2005年12月09日 | 心の教育
 
 仏教の出発点は、いうまでもなく、ゴータマ・ブッダが覚りを開いたことにあるわけですが、何を覚ったかというと、「縁起の理法を覚った」といわれています。

 『ウダーナ』という経典には、覚った後、ブッダが語ったという三つの詩が記されています。

 「実にダンマ(サンスクリットでは「ダルマ」、法、真理)が、熱心に瞑想しつつある修行者に顕わになるとき、そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。それは、彼が縁起の理法を知っているからである。」

 「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき、そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。それは、彼がもろもろの縁の消滅を知ったからである。」

 「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき、彼は悪魔の軍隊を粉砕して、安立している。あたかも太陽が虚空を照らすごとくである。」

 では、「縁起の理法」とは何かということになりますが、「縁起」には大きくいうと二つの意味があります。

 まず第一は、「すべてのものが縁・つながりによって生起している(したがって結局は一つだ)」という意味です。「相依相関」という言葉で表現されることもあります。

 長い禅定の末、暁の明星を見たとき、ブッダは「あの星(そして宇宙)と私はつながっていて一つだ」と覚ったのです。

 『サンユッタ・ニカーヤ』という原始経典には、「わたし(ブッダ)によって体得されたこのダンマは、はなはだ深くて、理解しがたく、覚りがたく、寂静であり、分別を超えて微妙であり、賢者によって知られるべきものである」とあります。

 ブッダは、深い瞑想を通じて、分別つまりすべてをばらばらに分離したものと見るものの見方を超えたとき、すべてがつながりによって生起していること・縁起の理法を覚ったのです。

 これは迷いのものの見方・無明を克服して、すべてが一体であるという宇宙のありのままの姿、つまり「如(タタター)」あるいは「真如」・「一如」を覚った、と言い換えてもいいでしょう。

 仏教学界ではいろいろ議論があるところのようですが、私はこの縁起の第一の
意味が決定的に重要だと考えています。

*私のブッダの教えの解釈は、玉城康四郎先生の影響が大であり(例えば『仏教の根底にあるもの』講談社学術文庫、参照)、友人の青森公立大学教授羽矢辰夫さんとはほぼ合意しているものです。


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ゴータマ・ブッダ略伝2

2005年12月08日 | 歴史教育

 とことん実践してみた結果、結局、そうした苦行では覚れないと判断したゴータマは、再度、徹底的な禅定を試みる決心をします。

 そして、苦行で汚れた体を河で洗い、ちょうど通りかかった村の少女スジャータの捧げるミルク粥を飲んで体力を回復しました。

  それから、ただひとりネーランジャラー河(尼蓮禅河、ガンジス河中流南岸)のほとりの菩提樹の下に坐り、「覚るまではけっしてこの座を立たない」と決死の覚悟で、静かに禅定・瞑想・思索を始めます。

そして長い禅定の果てについに覚り(成道)、覚った者になったとされています。

 後に固有名詞のようになった「仏陀(Buddha)」 とは、もともとは一般名詞の「覚りを開いた人」という意味です。

 前428年、35歳のことだとされています。

 日本では、12月8日――ちょうど今日ですね――のこととされており、お寺では「成道会(じょうどうえ)」という法要があり、特に禅の道場ではこの時期、「臘八摂心(ろうはつせっしん)」という集中的な修行が行なわれます。

 ブッダが覚りを開いた場所は「ブッダガヤー」と呼ばれ、今日に到るまで仏教の重要な聖地になっています。

 覚りを開いた後、彼は自分の覚ったことがあまりにも深く高くてとても人には理解できないのではないかと考え、教えることをためらったのですが、ヒンドゥー教の最高神ブラフマナー(梵天)に3度も強く請われ、あえて教える決心をした、という伝説があります。

 その後、旧友の修行者5人なら、自分の達した境地を理解できるかもしれないと思い、聖地ベナレスの郊外にある「鹿の園(鹿野園)」というところに行きます。

 かつての仲間は、苦行を捨てたゴータマを最初は無視しようとしたのですが、その姿があまりにも爽やかで輝くようなので、思わず出迎え、教えを聞くようになり、弟子になったといわれています。

 ここで、仏教の教団が成立したわけです。

 その後、毎年雨期には一ヵ所にとどまって定住生活(雨安居・うあんご)をしましたが、それ以外の時期にはつねに国中を遊歴して教え続けました。

 最後には、現在のネパールの国境に近いクシナーラーというところで80歳で亡くなりました(「入滅」とか「涅槃に入る」とかいわれます)。

 ブッダの伝記は、ちゃんと語るともっともっと長くなり、また感動的なのですが、私の任ではないので、友人の羽矢辰夫さんの著作などにゆずることにしましょう(『ゴータマ・ブッダ』『ゴータマ・ブッダの仏教』〔どちらも春秋社〕)。

 ブッダは何を覚り、何を教えたのか。

 次回から、これまた簡略に、私の解釈をお話していきたいと思います。


*写真はスコットランド国立博物館所蔵のガンダーラ仏


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ゴータマ・ブッダ略伝1

2005年12月08日 | 歴史教育

 すでによくご存知の方も多いでしょうが、ごく簡単に伝記的なことをお話しておきます。 

 仏教の創始者ゴータマ・ブッダ(仏、仏陀、Buddha)は、紀元前463~383年頃の人だと考えられています(他にもいろいろな説があるようですが)。

 ネパールの釈迦族の国王・浄飯王(シュッドダーナ)の長男として生まれ、俗姓をゴータマ・シッダッタといいます。

 国の中心はカピラ城といって、中部ネパールの南のタラーイ盆地にあり、誕生地はその郊外のルンビニー園だったといわれています。

 日本でふつう「お釈迦さま」とか「釈尊」といわれるのは、釈迦族出身の聖者という意味です。「釈迦牟尼(しゃかむに)」という場合の、「牟尼」が「聖者」に当たります。

 生後まもなく母のマヤ夫人が亡くなり、叔母に育てられました。

 若いころから、人生にはなぜ、病気や老いや死という苦しみがあるのだろうという深い疑問があって、王家の長男という恵まれた立場に安住していることできませんでした。

 しかし、王族の義務として跡継ぎの子をもうける必要がありますから、16歳で妃を迎え、ラーフラという男の子も生まれました。

 しかし、どうしても悩みを解決しないではいられなくなり、29歳で親も妻子も財産も立場もみんな捨てて修行者になりました。

 ふつうの家庭・社会の生活から出ていくという意味で「出家」といわれます。

 (それに対してふつうの家庭・社会生活をする人を「在家」といいますね。)

 そして、ほとんど死にそこなうところまでいろいろ苦行を重ねたり、あちらこちらいろいろな師を尋ね歩いたりしたのですが、いまひとつ満足できませんでした。

 最後にアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタという二人の仙人について禅定を修行し、どちらからも後継者になることを期待されるほどの境地に達したにもかかわらず、自分ではそれでは納得できなかったといいます。

 そこで山林に籠って6年間、瘠せさらばえて肋骨が見えるくらいまで苦行に苦行を重ねたのですが、それでも自分で納得できる覚りを得られませんでした。

 こうした常識的な安定した生活に安住しないだけでなく、既存の宗教的な方法についても、ぎりぎりまで実践し師から認められるまでになっても、自分で納得できるまではどんなに苦しくても安住しないという姿勢が、「覚り」という大きな飛躍をもたらしたのだといっていいでしょう。


*写真は釈迦苦行像:神奈川新聞のWEB記事より


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智慧・覚りと慈悲

2005年12月07日 | 歴史教育
 さて、これから仏教の創始者であるゴータマ・ブッダのことをお話ししていきます。

 いろいろお話しする前に、まず最初にご紹介したいのは、次のようなブッダの言葉です。


 生きとし生けるもののすべてが安楽で、平穏で、幸福でありますように。いかなる生命、生物でも、動物であれ、植物であれ、長いものも、大きなものも、中くらいなものも、短いものも、微細なものも、少し大きなものも、また今ここにいて目に見えるものも、見えないものも、遠くにいるものも、近くにいるものも、すでに生まれたものも、これから生まれるものも、一切の生きとし生けるものが幸福でありますように。

                        (『スッタニパータ』「慈悲経」145~147)


 結論から先に言うと、仏教のエッセンスは智慧・覚りと慈悲にあると思います。

 そして、智慧・覚りは慈悲を生み出すものであり、慈悲は智慧・覚りに裏付けられたものである、という切っても切れない関係にあります。

 覚りといっても、それによって「生きとし生けるものすべてが安楽で、平穏で、幸福でありますように」という慈悲の想いが自然に湧いてくるのでなければ、ほんとうの覚りとはいえないでしょう。

 慈悲といっても、こだわりや無理のある、悪い意味での人間的な愛情・愛着では必ず問題が起こりますから、覚りに裏付けられていなければほんものになりません。

 前々回あげたようないろいろ多様にある「仏教」という文化・宗教現象は、つまるところ、慈悲と覚りにつながるかどうかで、どのくらい時代を超えた普遍的な価値があるかを量ることができる、と私は考えています。

 なるべくそこに焦点を絞って、話を進めていきたいと思います。


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若者には縁起がわかる

2005年12月06日 | 心の教育

 大学では、すでに先週で仏教‐唯識の話が終わり、今日はまとめの「現代科学と宗教の調和」という話をしました。

 一人の学生がこういう感想を書いてくれました。

 「これまでの授業を受けてきて、世界観がかなり前より広がったように感じます。

 まず一番印象的だったのは、世界はまさに縁起・つながりの世界であって、すべての物が支え合い世界ができていること。

 こういったことを論理的に考えることで、自分が生きているこの世界の全てのものがより身近に感じられ、生きていくことが前思っていたより大変前向きに感じられるようになりました。

 …壮大な世界のちっぽけな自分という感覚から、壮大な世界の構成員の自分という考え方に変われたことがなによりもよかったことです。」

 ここまでの授業で、すでにこういった感じを掴んで下さった方もおられるでしょうが、これからの仏教の授業で、いっそう深めていただけると思います。

 「壮大な世界の―不可欠な―構成員である自分」という認識と実感を掴めるはずです。

 ご期待下さい。


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仏教の6つの側面

2005年12月05日 | 歴史教育

 ここで、ちょっと復習を。

 人間は言葉を使って生きる動物です。

 言葉なしには文化的な生活はまったく成り立たないでしょう。

 言葉によって、世界とは何か、社会とは何か、私とは何か、だから何をすべきか、何をしてはいけないか、何をしていいかといったことをはっきりと分かっていないと、ちゃんと生きていくことができません。

 (ただしあまりにも当たり前になっていると、改めて言葉にしろと言われてもできにくいということがありますが。)

 そういう言葉によって語られる体系的な世界観・人生観・価値観のセットを「コスモロジー」というのでしたね。

 「コスモロジー」は、ギリシャ語の「コスモス(世界)」+「ロゴス(秩序・言葉)」から来ています。

 さて、仏教も一つのコスモロジーです。

 しかも、「仏教」と呼ばれる文化現象は、複合的なコスモロジーだと考えられます。

 前回あげた事項のうち、2番目のシリーズは、宗教学では「呪術」と呼ばれるようなものです。

 ですから、こうした仏教の営みは、「呪術的仏教」と呼ぶことができるでしょう。

 加持祈祷が中心になっていますから、「祈祷仏教」と呼ぶ学者もいます。

 1番目のシリーズの特に輪廻、地獄-極楽という話は、「神話」に分類されます。

 「仏教神話」あるいは「神話的仏教」です。

 実際の仏教の営みとしては、葬式や法事が中心ですから、「葬式仏教」と呼ばれることもあります。

 しかし、「葬式仏教」という言い方には、かなり否定的なニュアンスがありますので、私としてはむしろ「先祖・祖霊崇拝仏教」あるいは「供養仏教」と呼びたいと思います。

 これは日本人にとって、とても本質的で大切なものだ、と私は考えています。

 3番目のシリーズは、各宗派の唱える言葉で、こうした仏教を「宗派仏教」と呼んでおきましょう。

 4番目は、「文化的仏教」あるいは「仏教文化」あるいは「観光仏教」と呼べるでしょう。

 5番目は、「哲学的仏教」あるいは「仏教哲学」と呼ぶことができます。

 そして、私の理解では、仏教のもっとも核にあるものは、「覚り・智慧」と「慈悲」ですが、それを「霊性的仏教」と呼びたいと思います。

 日本の伝統的な仏教は、こうした6つの側面に、さらに神道と儒教と道教などが習合した、非常に複合的なコスモロジーだと考えられます。

 そして、かつての日本人の平均的な心理的発達のレベルが呪術と神話の段階にあったために、文化現象としての仏教の主な部分はほとんど呪術・祈祷仏教と神話・供養仏教のかたちで営まれてきました。

 その担い手が「宗派仏教」だったのです。

 しかし、近代になって、仏教の前近代性(呪術性、神話性)が否定されるようになり、その担い手である宗派仏教はしだいに力を失いつつあるようです。

 近代人にとって、いまだにそれなりに魅力があるのは、観光の対象であるような仏教文化と、教養の対象であり学べば理性的に納得できる仏教哲学・哲学的仏教でしょう。

 そして、「霊性的仏教」こそ仏教の核心である――と私は考えていますが――ことを、はっきりとつかんでいる人は、残念ながら必ずしも多くないように見えます。

 この授業では、哲学的仏教の考え方を学びながら、霊性的仏教こそ仏教の核心であること、しかしそこがしっかりと押さえられていれば、現代でも他の側面が意味を持ちうること、この2点について述べていきたいと考えています。

 まず、次回から、原点である釈尊、ゴータマ・ブッダの教えのポイントについてなるべくわかりやすくお話ししたいと思っています。


*写真は西教寺の阿弥陀如来



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さあ出発です

2005年12月04日 | 心の教育

 みなさんは、「仏教」という言葉を聞いたら、何あるいはどういうことを連想するでしょう?

 まず、ノートなどを出して、思いつくことをできるだけたくさん書き出してみてください。



 例えば、お葬式、法事、お墓、お位牌、仏壇、お線香、死、地獄-極楽、輪廻……といったことでしょうか。

 あるいは、お札、お守り、お賽銭、お参り、縁起かつぎ、おみくじ、占い、おまじない・加持祈祷、おかげ(ご利益)や祟り……といったことかもしれません。

 「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」とか「南無大師遍照金剛」といった言葉の場合もあるでしょう。

 あるいは、奈良、京都などにある仏像やお寺やその庭などを思い浮かべるかもしれませんね。

 縁起とか無常とか無我、あるいは空などの仏教思想に関する言葉を連想される方もいるでしょう。

 どれもみな「仏教」に関係することにはちがいありませんが、それぞれがどんな意味をもっているか、特にそれらが全体としてどういうふうにつながっているか、聞かれたらどのくらい説明できそうですか?

 だいたい説明できそうだという方は、日本の精神的な伝統をちゃんと受け継いでいるといっていいでしょう。

 ほとんど説明できない方は、失礼ながら日本の精神的な伝統をほとんど見失っているということになると思います。

 これは、白か黒ではなく、いろいろグラデーション、バリエーションがあると思いますが、10から0までのスケールで、自己採点してみてください。

 10に近い方、さらに深めていきましょう。

 0に近い方、さあ出発です。


*写真は大津の天台真盛宗大本山西教寺の石仏です。衆宝王菩薩といい、「7種の宝を集めるようにすべての善行を宝として集める」菩薩だそうです。


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アイデンティティ確立のための上り坂

2005年12月03日 | 心の教育

 「思考の経済」ということばがあります。

 つまり、私たちがものを考える時にも、なるべくエネルギー消費を少なくしよう・安くあげよう・負担を軽くしようという「経済法則」が働くという意味です。

 すでに決まり切っている・当たり前と思っていることを、改めて考え直すとか、そのために学び直すというのは、心理的な作業としてはけっこう負担です。

 なるべくなら、そういうことはしないで、「そんなことは決まり切っている」と信じて(つまり思い込んで)、従来のパターンどおりやっているほうが楽なのですね。

 特に世界観・人生観・価値観の体系的なセットであるコスモロジーは、一定の社会の中には必ず「そんなこと当たり前」というかたちで、半ば以上無意識的な社会の通念・常識としてあるものです。

 社会全体がうまく機能している間は、それに乗っかって自動的に動いているほうが明らかに楽です。

 戦後の日本社会は、戦前の伝統的コスモロジーが社会の建前として否定され、近代的な科学合理主義と個人主義的な民主主義のコスモロジーが建前になりました。

 そして、そのベースには自由主義・資本主義経済という制度があります。

 しかし、この授業の最初のほうでお話ししたとおり、そういう戦後日本の建前がしだいにうまく機能しなくなってきており、若い世代ほど、ニヒリズム-エゴイズム-快楽主義という、コスモロジーとしてはきわめて具合が悪く(なにしろつきつめると死にたくなるんですから)、コスモロジーというよりコスモロジーの崩壊と呼びたくなるような価値観に陥りつつあると思われます。

 若い世代ほどといいましたが、もう定年間際の年齢層まで戦後教育で育った世代ですから、これは若者だけの話ではありません。

 ここのところ(も)、政治・経済の中堅やトップの責任ある立場の人々の信じられないようなごまかし行為の事件がいくつも報道されています。

 新聞・テレビ情報の範囲での判断ですが、彼らの心にはどう見ても、「悪いことをしたって、別に死んで地獄にいくわけじゃなし、お天道さまが見てるわけでもなし、ばれなきゃ平気だ。生きている間、悪いことをしてでも儲けて、豪遊でも何でも好き勝手に自分のしたいことをしなきゃ損だ」という考えが巡っていたとしか考えられません。

 彼らの心からは社会のルールを守らなければならない理由がなくなっていたのです。

 そうでなくて、どうしてそういうことができるのでしょう?

 頻発する事件の背後には、コスモロジーの崩壊という深刻な社会心理の状況があると考えるほかありません。

 この公開授業は、そうしたコスモロジーの機能低下、あるいは崩壊という状況に対して、一方ではもっとも新しい科学のコスモロジーと、もう一方では伝統的なコスモロジーのプラスの面の見直しをすることによって、戦後日本の常識的なコスモロジーを「含んで超える」ことを目指す試みです。

 これは「思考の経済法則」にはあまり合わない、楽でも軽くもない作業です。

 ですから、もしかすると、ブログという「軽い」コミュニケーション・ツールには向かない話なのかもしれません。

 しかし、マスコミ、思想ジャーナリズム、アカデミズムの大多数が、そういう根本的問題に気づいていない――ように私には見える――状況下で、心ある国民(あえて「市民」という近代主義的な言い方を避けます)に、1個人でも広く問いかけができる媒体としては、可能性をもっている、と考えています。

 本気で、「この社会を何とかしなければならない」、「社会をよくしたい」と願っている方には、楽でも軽くもないかもしれませんが、ぜひ参加していただきたいと願っています。

 そして何よりも、口コミならぬブログコミをぜひ展開していただけると幸いです。

 これから授業は、特定宗教としてではなく日本の精神的伝統の中核としての仏教の話に差し掛かります。

 実際の学生でも、ここからが「難しい」といって脱落者が増えてくる段階です。

 しかし、これは「越えなければならない坂」です。

 ……と、ちょっと脅しが入りましたが、仏教がわかると日本の伝統のすばらしさがわかり、日本の伝統のすばらしさがわかると日本人である自分に正当な誇りが持てるようになる=アイデンティティが確立できる=自信がつく、という仕掛けになっています。

 ですから、苦しい上り坂の後で展望が開けた時の登山の喜びに似た、充実という意味での楽しさは十分味わっていただけるはずです。

 心の準備体操をしていただいて、よかったら、どうぞ最後までついて来てください。


*写真は東大寺大仏殿

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推薦図書

2005年12月01日 | 心の教育
 さて、今日も大学の授業と企業の方との打ち合わせで忙しく、新しい記事を書けません。

 そこで、この授業のベースにさせていただいたたくさんの文献のうち、ぜひみなさんにお勧めしたいもの、入手しやすいものを選んで以下に掲げておくことにします。

 *印は入門的なもの、**はやや詳しいものです。

 順序は、ストーリーの流れにほぼ沿っています。

 また、この授業のいわば底流になっている考え方をさらに知りたいと思われる読者は、K・ウィルバー及び筆者の著作を参照してください。

佐治晴夫『宇宙の不思議』PHP文庫*
〃  『宇宙はささやく』PHP文庫*
〃  『ゆらぎの不思議』PHP文庫*

21世紀こども百科『宇宙館』小学館*

K・マーシャル『人類の長い旅――ビッグ・バンからあなたまで』さ・え・ら書房*

ユベール・リーヴズ他『世界でいちばん美しい物語』筑摩書房

和田純夫『宇宙創成から人類誕生までの自然史』ベレ出版**

カール・セーガン『コスモス』上・下、朝日文庫

E・ヤンツ『自己組織化する宇宙』工作舎**

海部宣男『宇宙誌の中の人間――宇宙と生命と人間』講談社α文庫

佐藤勝彦『宇宙はわれわれの宇宙だけではなかった』PHP文庫

R・ジャストロウ『壮大なる宇宙の誕生』集英社文庫
〃  『太陽が死ぬ日まで』集英社文庫

『宇宙創生に挑むパイオニア』日本放送出版協会**

M・チャウン『僕らは星のかけら』無名舎

J・W・ショップ『失われた化石記録』講談社現代新書

松井孝典『地球・宇宙・そして人間』徳間書店

R・カースン『われらをめぐる海』ハヤカワ文庫

丸山茂徳・磯崎行雄『生命と地球の歴史』岩波新書

葉山杉夫『ヒトの誕生』PHP新書

P・シアーズ『エコロジー入門』講談社現代新書

石弘之『地球環境報告』『地球環境報告Ⅱ』岩波新書

石弘之・安田喜憲・湯浅赳男『環境と文明の世界史』洋泉社

安田喜憲『森を守る文明・支配する文明』PHP新書

ケン・ウィルバー/大野純1訳『万物の歴史』春秋社
 〃  /松永太郎訳『進化の構造』1、2、春秋社
 〃  /岡野守也訳『万物の理論』トランスヴュー

岡野守也『トランスパーソナル心理学』青土社
〃  『唯識のすすめ』NHKライブラリー
〃  『コスモロジーの創造』法蔵館
〃  『自我と無我』PHP新書
〃  『生きる自信の心理学――コスモス・セラピー入門』PHP新書


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