八識1:東洋における「無意識の発見」

2006年02月14日 | 心の教育

 「人の好き嫌いをしてはいけない」とか、「人を分け隔てしてはいけない」とかいうのは、たいていの人が教わって知っています。

 しかし知っているからといって、実行できるかというとなかなかできないのではないでしょうか。

 してはいけないと思いつつ、会ったとたんにその人のことを「いい感じ」とか「嫌な感じ」とか感じてしまいます。

 つまり、好き嫌いをしているのです。

 身なりや見かけや肩書や地位などで相手への態度を変えるのはあまりいいことではないと思いつつ、ついつい態度が変わってしまいます。

 分け隔てをしてしまうのです。

 こういうふうな、なぜか、ついつい、どうしても、思わず、思わず知らず、わけもなく、わけもわからず……「してはいけないのに、してしまう」とか「しなければならないのだが、できない」という体験は誰にでもあるのではないでしょうか。

 このことは、人間の心に、してはいけないとかしなければならないと思い、それはなぜなのかわけがわかるという部分と、思わずしてしてしまう、なぜかできないという部分があることを示しているといっていいでしょう。

 西洋のフロイド以降の心理学は、自分でわかっている心の部分を「意識」と呼び、自分でもわからない心の部分を「無意識」と呼んでいます。

 「わかる」とか「思う」という言葉が示しているように、意識は理性や思考や意思にかかわる部分です。

 それに対して、どうしてもやりたかったり、なぜかできなかったり、わけもなくそういう気分になったり、つい感じてしまったりというふうに、無意識は欲望や気分や感情にかかわる部分です。

 こういうふうに人間の心が意識と無意識の部分で成り立っているということをはっきり理論化したのは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、オーストリアの精神医学者フロイドの「精神分析」だ、というふうに一般的には思われてきました(エレンベルガー『無意識の発見』弘文堂、参照)。

 しかし、「無意識」という言葉は使われていないにしても、2,3世紀、唯識学派の人々は、人間には自分でもよくわかっていない、意識的にはコントロールできない心の深い部分があることに気づいていました。

 修行のプロセスで、「すべては一つでありつながっているというのが世界の本当の姿だ」、「他と分離した実体としての自分があると思うのは無明・錯覚だ」と師から教えられ、学んで知って、納得しても、なぜかどうしても実感は湧かない、日々そういうことに基づいて実行することはできない、という深刻な体験から、そういう気づきが生まれたのだと考えていいでしょう。

 分別知は無明だと分かっても、分別知をやめることができないのは、分別知を働かせる力が意識とは別の心の奥深いところにあるからだ、と捉えたのです。

 4,5世紀、唯識学派では、そういう心の奥底には「マナ識」と「アーラヤ識」と呼ばれる領域があるという、いわば「深層心理学」が、世親・ヴァスバンドゥによって完成させられています。

 西洋・フロイドに先立つこと1500年あまり前に、東洋ではすでに「無意識の発見」がなされていたのです。

 これは驚くべきことですし、少しは誇ってもいいことではないでしょうか。


にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ

↑よろしかったら、クリックしてご協力ください。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三性6:見る方向で見えるものが違う

2006年02月13日 | 心の教育

 一見難解そのものに見えた唯識も、わかってみると、ポイントはシンプルでした。

 (……といっても、ポイントがシンプルなだけで、専門的な唯識学の理論はもっともっと詳細・緻密ですよ。そこは誤解なきよう。)

 三性説についていえば、ばらばらからつながりを見るのがまちがい、一つからつながりを見るのが正しい、ということなのです。

 分別性で依他性の世界を見るのは無明・迷い、真実性で依他性の世界を見れば覚りです。

 おなじつながりの世界を、どちらから見るかで、結果はまるで違ってくるのです。

 見る方向で、見えるものがまるで違う。

 まあ、考えてみるとそれは当たり前ですね。

 おなじ絵でも、前から見るのと後ろから見るのでは、見えるものがまったくちがいますからね。

 前から見れば美しい名画だけれど、後ろから見たらそれほど美しくもない額の裏側ということになります。

 一つのものとして世界をみると、「なんてすばらしい世界なんだろう」と感じますが、ばらばらの面を見ると、時に「なんて醜い世界だろう」とうんざりしたり、絶望的な気分になってしまうことがあります。

 さて、理論のポイントはこんなにもシンプルですから、頭でわかるのはそれほどむずかしくないのですが、それを自分のこととして心の奥底から実感し実践するのは、とてもむずかしいのです。

 ヘッド(頭)でわかることと、ハートで感じることと、ガット(胆)に収まることは、かなり、そうとう、すごく、全然、違うことなんだよ、と私はよく学生にいいます。

 自分とコスモスの一体性をなかなか実感できないのはなぜか、身心全体で実感するというのはどういうことかを明らかにするのが、次の八識-四智説です。

 コスモスと私たちは一体というすてきな話を、ヘッドでわかるだけでなく、ハートで感じ、ガットに収めたい方、続けて学んでいきましょう。


*この写真は、今日近所で咲いていた今年の梅です。


にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ

↑よかったら、クリックしてご協力ください。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三性5:コスモスと私は一つ

2006年02月12日 | 心の教育

 私たちは、事実としてつながりの世界に生きています。

 ですから、誰ともつながり・かかわりのない一人ぽっちの人は、気分としてはたくさんいても、事実としては一人もいない、のでした。

 無数の私ではない、しかし私の依りどころとなってくれているもの(者・物)が存在しています。

 それどころか、私でないものと私はさまざまな意味でつながっていて、結局は一体です。

 すべては究極のレベルでいうと一体であるというのが真実の世界のすがたです。

 そのことを、唯識では「真実性」といいます。一つの世界、一つの世界を見る見方ですね。

 私の存在の前に、すべてがつながって一体であるコスモスがあったのです。

 そして、瞑想的直観と現代科学は、すべてのものがそれぞれのかたちを持って現われるよりも前に、まず一体のコスモスがあった、といっています。

 どうも、それがほんとうのこと、真実の世界であるようです。

 唯識に先立つ中観の思想では、そういう真実の世界を「空」と表現しました。

 先にお話ししたように、そこには深い意味が含まれているのですが、「空」という言葉の印象のせいで、聞く人に誤解を与えがちでした。

 そこで唯識学派の人々は、空の世界を「真実性」、玄奘の訳では「円成実性(えんじょうじっしょう)」と表現しなおしたわけです。

 一切の分離のない一体の世界を見ること、一つを見る見方とは、ゴータマ・ブッダ以来の言葉を使えば「覚り」ということです。

 すでにつながり‐かさなりコスモロジーと空の思想について学んできたみなさんには、「コスモスは一つ」、「コスモスと私は一つ」ということについて、これ以上くわしく説明する必要はないでしょう。

 それにしても、始めて気づいた時から今に到るまで、これはほんとうに不思議なことだなあ、と私は繰り返し感じます。

 「空・一」は、分別知-言葉では思うことも議論することもできないのですから、不思議に思うのが当たり前かもしれませんね。

 レイチェル・カースンさんの言葉を借用すると、「センス・オヴ・ワンダー」です。

 コスモスのおかげでいまここに私が存在することができている、コスモスとこの地球とすべての生き物と人類と私が一体、というのは、とても不思議で、とてもすばらしいことですね。

 What a wonderful world !

 ……と、ここまで学んでいただけたら、仏教が楽しく生きるための理論と方法であることを納得していただけるようになってきたのではないでしょうか。

 ゴータマ・ブッダの言葉をもう一度引用させてください。

 「悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮らそう。」


*写真は去年の鎌倉の梅の花です。もうすぐまた咲きますね。


にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三性4:おかげさまに気づく

2006年02月11日 | 心の教育

 私と親とどちらが先にいたでしょう?

 あまりにも当たり前のことですが、私よりも親たちのほうが先にいました。

 親たちとその親たちのどちらが先にいたでしょう?

 もちろん、親たちの親たちです。

 私よりも先に親やその親やご先祖さまがいました。

 私と私の食べる植物や動物のどちらが先に存在していたでしょう。

 植物や動物ですね。

 何度も繰り返してきたことですから、ここでは細部は省略しましょう。

 ともかく、それらの無数のつながりの中で=おかげで、私が生まれてくることができた、私が私になることができたわけです。

 つまり、私が生まれてくる前に、私が生まれる条件になっているさまざまなもののつながりが先にあったのです。

 個々のもの(者・物)が存在する前に、つながりが存在しています。

 これは、ふだん私たちが思ったり、議論したりしないこと、つまり不思議なことで、でも気づいてみると確実な事実ですね。

 個々のものの存在に先立つつながりの世界、あるいはそういう世界を見るものの見方を「依他性(えたしょう)」というのでした。

 ばらばらを見る見方=分別性に対して、つながりを見る見方=依他性です。

 依他性の世界が先立つ事実である以上、そちらを先に見るものの見方のほうが正しいといわざるをえません。

 ばらばらを見る前につながりを見るのがより正しいものの見方だ、というのが仏教の基本的な主張のひとつだといっていいでしょう。

 個々のもの、特に私から始めてものを見たり考えたりするのをやめて、まずかかわり・つながりからものを見たり考えたりできるようになってくると、覚りの世界に大きく近づいたことになります。

 ここで、改めて私を私にしてくれている実に無数のかかわり・つながりのことを、できるだけ詳しく思い浮かべてみてください。

 そうすると、きれいごとや儀礼や強制的倫理としてではなく、自然な認識に基づいた自発的な思いとして、「私の自由でしょ」、「オレの勝手だろ」ではなく、「おかげさま」という言葉が心に浮かんでくるのではないでしょうか?

 依他性というのは、わかりやすくいうと、事実としての「おかげさま」の世界にしっかりと気づくということです。

 昔は若気の至り――自分の性格のせいと戦後個人主義教育のせい――で、「私は私だ(哲学用語でいうと「実存」)」とか言っているのがかっこよくて、「おかげさま」などという虚礼のセリフなんて下らないと思っていたことが、ほんとうに恥ずかしくなります。

 「おかげさまです」――それにしても日本語にはいい言葉があるなあ、と思うようになったのは、いい意味で「歳のせい」だと思います。

 いい取り方なら、歳は取るものですね。



*写真:日当たりのいいところではもう水仙が咲き始めました。


にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ

↑よかったらクリックしてご協力ください。
コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尽きることのないともしび

2006年02月10日 | 心の教育

 久しぶりに『維摩経(ゆいまぎょう)』を比較的ゆっくりじっくりと始めから終わりまで読み直しました。

 空と慈悲という一見矛盾するような概念が、なぜ大乗仏教では1つのものとして捉えられたのか、再確認したいと思ったからです。

 古典を読むたびにいつも、埴谷雄高の「古典は成長する」という言葉を思い出します。

 読んだときにはその内容を十分理解できたつもりだったのが、もう1度読んだときに「こんなことが書いてあったのか」と、読めてなかったことがいろいろあることを改めて実感するという体験を何度もしました。

 今回も、「ここにはこんなことが書いてあった、あそこにはあんなことが書いてあった」と、さまざまな発見がありました。

 そのひとつをご紹介したいと思います。

 これは維摩居士・ヴィマラキールティが、魔神パーピーアスからいったん天女2千人を申し受け、教えを伝えた後で、魔宮に帰すことにした時に、彼女たちの質問に答えた言葉です。

                    *

 すると、これら天女たちが、ヴィマラキールティを拝してから申しました。「家長さま、魔宮に帰ってから、私どもはどのようにして住んだらよいのでしょう」。

 彼が答えました。

 「諸姉よ、尽きることのないともしび(無尽燈)と名づけられる法門がある。それを学んで努力しなさい。
 それは何か。諸姉よ、一つの燈から百千の燈が点火されても、かの燈(の明るさ)が減るわけではありません。
 それと同じく、一人の菩薩が百千の多数の人々を菩提の中に導き入れても、かの菩薩の(菩提)心の記憶は減らないし、減らないだけではなく増加するものです。
 同様に、すべての善の法が他に対して説かれたとき、説かれるに応じて、それらの善は増大する。これが無尽燈と名づけられる法門です。
 おまえたちがかの魔宮に帰ったなら、無量の天子や天女たちが菩提の心をねがうようにしなさい。そのようにしておまえたちは、如来の恩をよく知る者となり、あらゆる衆生を(真に)生かすこともなるでしょう」。

                    *

 自分が学んだことを人に伝える、伝えられた人がまた他の人に伝える……というふうにして、真理の燈が果てしなく伝えられ広がっていき、魔の住む世界を明るく照らし浄化していく、というのは、実に美しいイメージです。

 インターネット-ブログの世界は、全体としては「匿名性」という隠れ蓑――そこから誘発されがちな「誰も見ていない」、「誰にもばれない」という気持ち――のお陰で、人間の煩悩が恐ろしいほど拡大再生産されて広がっている世界のように私には見えます。

 内面の煩悩の浄化が困難であることのおそらく何万倍も、インターネット上に流れている煩悩情報の浄化は困難でしょう。

 それは、ほとんど不可能にさえ見えます。

 しかし、「ほとんど」は「まったく」ではありません。

 ほとんど不可能かもしれないがまったく不可能ではないと信じるので、私はあえて自らから始めてすべての煩悩の浄化に挑戦したいと願っています。

 それはもしかしたら、ドン・キホーテ的な試みなのかもしれません。

 しかし、大乗の菩薩はドン・キホーテ的であることをあえて買って出た存在なのではないでしょうか。

 大きな願いの②は、「つまらない悩みはぜんぶなくしたいよね(煩悩無尽誓願断、ぼんのうむじんせいがんだん)」ということです。

 それは、一人の菩薩だけでは不可能に決まっていますが、真理の燈が百-千-万-百万-千万……六十数億と広がっていけば、可能になります。


にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三性3:ばらばらからつながりを見る

2006年02月08日 | 心の教育

 ふつうの人はたいてい大人になると、「私は私だ」と思うようになります。

 さらに、「私は私で生きている」と思ったり、「私の人生は私のものだ」とか、もっと進んで「私はだれの世話にもなっていない」とか「どうしようと私の勝手だろう」という考えを持ったりします。

 こういう考え方はあまりにもありふれているのでおかしいとは思われないことが多いのですが、よく考えてみるととてもおかしい考え方です。

 そもそも私は、私でない人たちつまり親によって産んでもらわなければ私になることができませんでした。

 私は、私でない人によって私にしてもらったのです。

 ですから、「私は私だ」としか思えないのは、そういう人生の出発点・原点を忘れたおかしな考え方だというほかありません。

 私たちは赤ちゃんの時は全面的に人の世話になって生きていたわけで、「だれの世話にもなっていない」といえるような人は、おそらく世界に1人もいないでしょう。

 もちろん、大人になった時点で人にあまり余計な世話をかけてはいないという人は多いわけですし、そうでないと困ります。

 しかし、毎日に暮らすために必要な食べ物を全部自分で作っているという人は少ないでしょうし、家を自分で建てた人も多くはないでしょう。

 日常に使っている生活用品を全部自分で作っているという人は、少なくとも文明社会には1人もいないのではないでしょうか。

 もちろんそういうものを手に入れるに際してちゃんと代価を払っているという意味でなら、「世話になっていない」といえないこともありません。

 しかし、たとえ代価を払っていても他の人の手を借りていることはまちがありません。

 そういう意味でいえば、実にたくさんの人の世話になっているのです。

 ただ人間だけではなくて、食べ物になってくれる植物や動物、それらを育む大地、育むために不可欠な水や空気、生命エネルギーのすべてを供給している太陽、そして太陽を含んだ銀河、そして無数の銀河を含んだ全宇宙すべてのおかげで、私が私であることができるのです。

 さらにそういう自分やそれ自体によって存在するのではなく、他に依って存在することができるというのは、全宇宙を別にすれば宇宙の中のすべてにいえることです。

 ゴータマ・ブッダの用語でいえば「縁起」というのは、全宇宙を貫く法則・真理なのです。

 唯識は、その縁起を見るものの見方を「依他性」と呼んでいます。

 分別的なものの見方にどっぷりとつかった私たちふつうの人間も、縁起の世界をまるで見ないわけではありません。

 いくら、「私は私だ」と思っていても、他のもの(者・物)との関係なしに生きていると思っている人は、心の病気の人を除けば、いません。

 しかし他のものとの関係を考える時、私たちは自分との関係で考えることがほとんどです。

 「私にとっていい人」とか「私が嫌いな人」とか「私に関係のない人」、「私の好きなもの」とか「私の嫌いなもの」とか「私の関心のないもの」というかたちです。

 他と分離して存在していると錯覚された「私」を中心にして、そこから他の人や物を見るのです。

 こういうものの見方を唯識の言葉で整理すると、「分別性から依他性」ということになります。

 前回、「分別性こそ無明の正体なのです」といいましたが、より正確にいうと、「分別性の見方でしか依他性の世界を見ることができないことが無明の正体だ」ということができるでしょう。

 やさしく言い換えると、ばらばらのものの見方からつながり・かかわりの世界を見るのがすべての間違いの始まりだ、ということですね。


 ここからは、伝統的な唯識学でいわれていることではないのですが、私のコメントとしていえば、「分別性から依他性」はすべて無明だといっても、分別性と依他性のどちらに重点が置かれているかによって、覚りの世界に近いか遠いかの違いはあります。

 覚っていなくても、いつも自分を中心にしてしか人や物との関係を考えられない人よりも、まず他の人や物とのかかわり・つながりを考えることのできる人のほうが、人間としてよりよいといえるでしょう。

 たとえ縁起や無我や空を覚っていなくても、他の人や物とのご縁をとても大切にするやさしい人が「仏さまみたい」といわれるのは、当然だと思います。

 私たちは、覚った人=仏にはなれなくても、少しでも「仏さまみたい」なところのある人間に成長できるといいですね。

 四つの大きな願いの④「ほんとに最高にいい人になれるといいよね」という気持ちで、できるだけの努力をしていきましょう。


にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三性2:言葉と分別性

2006年02月07日 | 心の教育

 私たち人間は朝起きてから夜寝るまでほとんどの時間、言葉を使って生活しています。

 実際に話したり聞いたりしていないときでも、心の中で言葉がめぐっています。

 考えるのは、ほとんど言葉をめぐらせることで考えるわけです。

 「イメージ思考」というのもないことはありませんが、ほとんどはやはり言葉で考えるのです。

 そういう意味でいえば、人間は言葉漬け状態になっているといってもいいくらいです。

 そのために、言葉を使って認識した世界の姿がそのまま世界の本当の姿だという錯覚があっても、なかなかその錯覚に気づくことができません。

 そのあたりのことは、すでに「言葉の栄光と悲惨」という記事である程度触れました。

 世界中の言語のほとんどが、主語+述語、特に名詞・代名詞と動詞という仕組みで物事を捉えるようにできているそうです。

 進化のある段階から言葉を使い始めた人間は、つながりあって一つである宇宙の特定の部分に特定の「名前」をつけて認識するようになりました。

 一体であるとはいっても、全体としての宇宙はもちろん特定の部分と他の部分とを区別することはできるような姿をしています。

 ところが、名詞というものがそれぞれ分離独立しているために、名前を付けて認識すると、特定の部分が他の部分から分離独立して存在しているかのように思えてくるのです。

 例えば「私」は、これまでいろいろな点から見てきたように、私だけで生きていられるわけではなく、私ではないさまざまなものによって生きていることができるのです。

 水や空気や食べ物や太陽エネルギーなどなどは、常識的には「私」ではないように思えますが、実は私を私として生かしてくれているものであり、私の中に取り込まれた時には、私そのものの構成要素の一部になります。

 「私は私でないものによって私であることができる」というのが、不思議なように思えますが、事実です。

 ところが「私」という代名詞を使って自分を認識すると、まるで「私は私だけで生きている」というふうな気になりがちです。

 他のもの(者・物)に依らず、それ自体で分離独立しているものがあるように思うものの見方のことを、唯識では「分別性(ふんべつしょう)」といいます。

 この「分別性」こそ「無明」の正体なのです。

 そしてその分別性=無明は、言葉を使うという人間の本性に関わっているので、人間は無明から解放されるのがきわめてむずかしいわけです。

                    *

 補足的に少しだけ面倒なことをお話ししておくと、古典的な論理学では思考・言葉の法則として3つの原理をあげます。

 まず、「AはAである」という「自同律」または「同一律」と呼ばれるものです。

 これを私に当てはめると、「私は私である」ということになります。

 次は、「Aは非Aではない」という「矛盾律」です。

 これを私に当てはめると、「私はあなた(など私以外の人間)ではない」ということになります。

 さらに、「Aでも非Aでもないものは存在しない」という「排中律」です。

 これを私に当てはめると、「私でも私でもないものは存在しない」ということになります。

 こういうふうな言葉の法則によって私と私でない人を認識すると、下手をするとすぐに「私は私であって、あなたではない。私の利益は私の利益であって、あなたの利益ではない。私の利益でもあなたの利益でもないものは存在しない。利益は私のものかあなたのものかどちらかであって、1つになることはない」というふうな考えに陥りがちです。

 言葉の論理や秩序を元にした人間の認識は、ともすれば分裂や対立に陥る強い傾向をもともと持っているのです。

 こうしたことを見ていくと、しみじみ言葉を使う動物・人間というものの厄介さを感じずにはいられません。

 (このあたりについて詳しく知りたい方は、八木誠一『自我の虚構と宗教』春秋社を参照してください。絶版になっていますが、探せば古本屋で見つかると思います。)

 ……しかし、仏教の話はこういう暗い話で終わりではないのでしたね。

 続けて学んでください。 

 
にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三性1:ものの見方の3つのパターン

2006年02月06日 | 心の教育

 たいていの人は、毎日、自分が誰であるか、何をすべきか、社会というものがどういうものであるか、等々、ちゃんとわかっているつもりで生きています。

 しかし、そういう「わかっているつもり」が、深い意味では「無明」である、とゴータマ・ブッダは教えていました。

 そもそも「わかる」というのは、「分かる」ということで、物事を分けて他のものと違うと「別ける」ことです。

 例えば、向こうから歩いている人を見て、誰だかわかるということは、その人が男ではなく女であったり、少女ではなく大人の女性であったり、他人ではなく友達だというふうに分けて違いがわかるということです。

 しかも、そういうわかり方の背景にはさらに、彼女が人間であって犬でも猫でもなく、道路でも建物でもない別のもの(者)であるという分け方があります。

 そういうふうに私たちがふだんやっているものごとを別々のものとして分けて「わかる」という心の働きを仏教では「分別」といいます。

 しかし「縁起」の解説の時にお話ししたように、実はすべてのものはつながって起こっているのであって、分かれて別々に存在しているのではありません。

 例えば女性は、女性としてのみ分離独立して存在しているわけではなく、男性と同じ人間という関わりがあったうえで、男性と区別できる異なった性として存在してるわけです。

 もちろん区別はあるのですが、分離はしていません。

 またその女性は、もちろん道ではありませんが、道との関わりがあるからこそ歩くことができるわけです。

 そしてその女性の歩いている道は地面の一部であり、○○町の一部であり、○○市の一部であり……と、他の土地とつながっています。

 またその女性は、空気ではありませんが、空気を吸うことによって存在することができるのです。

 ……というふうに、よく考えるとすべてはつながり・関わりによって存在している、つまり縁起的に存在しているのでしたね。

 そして、私たちが普通にしている「分別」は、深い見方からすると「無明」なのでした。

 唯識ではそういう私たちの「分別」という心の働き方を、1つのものの見方のパターンとして「分別性(ふんべつしょう)」あるいは「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」と呼んでいます。

 それに対して、つながり・関わり・縁起を見るものの見る見方を「依他性(えたしょう)」あるいは「依他起性(えたきしょう)」といいます。

 そしてさらに、すべてのものがつながり-つながり-果てしなくつながっていて、結局は一つであるというほかない事実を見る見方を「真実性(しんじつしょう)」あるいは「円成実性(えんじょうじっしょう)」といいます。

 (前のセットは真諦三蔵の訳語、後のセットは玄奘三蔵の訳語です。前のセットのほうがわかりやすいので、この授業では以後、そちらを使うことにします。)

 以上のような、分別性、依他性、真実性というものの見方の基本的な3つのパターンを取り出して、迷いのものの見方と覚りのものの見方の違いを明らかにする唯識独特の理論を「三性説(さんしょうせつ)」といいます。

 次から、この「三性説」について、もう少し詳しく見ていきましょう。



にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菩薩はわざわざ浄らかでない国に生まれる

2006年02月05日 | メンタル・ヘルス

 旅先で文庫本の『維摩経』(中公文庫)を読んでいたら、とてもいいことばがありました。

 問う、「なぜ、太陽はジャンブ州(この世界)の上にのぼるのですか」

 答える、「それは、照らして闇を除くためです」

 言う、「…それと同じく菩薩も、衆生を浄め、知恵の光を照明し、大闇(だいあん)を除くためにわざわざ清浄(しょうじょう)でない仏国土に生まれるのです。しかし、煩悩といっしょにあるのではなく、あらゆる人々の煩悩の闇を除くのです」

 問題の多い、浄らかとは言えない社会になりつつある国に生きていることも、菩薩としてわざわざ選んだことと考えれば、ポジティブに捉えることができます。

 大乗の思想はほんとうに深いな、と改めて思いました。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心の深みをかいま見る――集合的無意識とアーラヤ識

2006年02月04日 | 心の教育

 私たちはふだん、「自分のことは自分がいちばんわかっている」、だから「自分のことは自分で決められる、自分でコントロールできる」と思いがちです。

 そして、こういう気持ちは、行き過ぎさえしなければ、健全に生活していくためには必要なものです。

 そういう「わかっているつもりの自分」を、心理学ではおおまかにいうと〈意識〉とか〈自我〉とか呼んでいます(枚数の関係で以下すべておおまかにいうと、です)。

 しかし、人生でいろいろな出来事に出会うと、「自分でも自分のことがわからなくなった」とか、「どうすればいいのか、自分のことを自分で決められない、自分をコントロールできない」という心理的な混乱に陥ることがあります。
それは、外側の出来事が原因である場合もありますが、心の内側の出来事による場合もあります。

 「抑えても抑えても、なぜか、不安が湧き起こってくる」とか、「やめたほうがいいとわかっているのに、どうしてもやめられない」とか、「思うまいと思うのに、思ってしまう」とか、自分で自分をコントロールできないことがあります。

 そういう時の、抑えたり、やめたほうがいいとわかっていたり、思うまいとする心の部分が〈意識〉で、なぜか湧き起こってきたり、どうしてもやめられなかったり、思ってしまうという働きをさせるのが〈無意識〉だと、これもおおまかに考えていいでしょう。

 つまり人間の心にはどうも、自分でわかっているつもりの〈意識〉だけでなく、自分でもわからない〈無意識〉の領域があるらしいのです。

 自分の心でありながら、自分にわからない、自分の思いどおりにならないというのは、少し不気味であり、とても不都合なこともあるのですが、それが事実だとしたら、しかたありません。

 現代の深層心理学の創始者フロイドは、人間の心にはそうした深みがあることをはっきりと理論化した近代最初の人です(ある程度の理論化をした先駆者はいます)。

 しかし、フロイドは――特に初期から中期くらいまで――無意識はその人個人の心の領域だと考えていたようです。

 それに対して、一時期は歩みを共にしていたユングは、人間の心の深みには、その人個人の体験とその記憶とは思えない領域があると考えました。

 家族や先祖、民族、人類などのレベルにわたって共有している心の深みがあるというのです。それを〈集合的無意識〉と呼びました。

 その点での理論的な対立のために二人はやがて訣別します。

 例えば夢ですが、もちろん個人の昼間の体験が単純に再現されたり、いろいろ形を変えて現われたり、個人の心の奥にあった欲望を実現したりするという夢もあります。

 しかし、ユングは、それでは説明のつかない、不思議な、象徴的な夢を見ることがあるといいます。

 それは彼の体験に基づいていて、三、四歳頃、一生涯ずっと自分の心を奪うことになった夢を見たというのです。

 ユングは、スイスのプロテスタント・キリスト教の牧師の子どもで、そういう文化背景では、当然、神は天にいるわけです。

 ところが夢の中で、地下道の階段をずーっと降りていくと、そこに男根のようなかたちをした神がいて、それを見て彼が怖がっていると、お母さんの声が「そうなの、よく見てごらん。あれは人食いなんだよ」というのを聞いて、汗びっしょりになって、目を覚ましたといいます。

 それから、同じ夢を見はしないかと、毎晩寝るのが怖いという体験をしたというのです。

 そういう「地下の男根のようなかたちをした神」というイメージは、キリスト教の牧師の子で三、四歳という年では、どこかで何かを見たり、教えられたりしたという、個人的体験から来るとは思えないというわけです。

 ユングは、幼時からこうした夢やイメージが心の奥から湧いてくるという体験が重なり、それが何なのか説明しなければ、発狂するかもしれないという心の危機に、人生で何度も遭遇し、やがてそうした夢やイメージとそっくりのものがキリスト教以外の世界の様々な神話にあることを発見していきます。

 そしてそうした神話、夢、イメージを生み出す、個人性を超えた心の奥底の領域を〈集合的無意識〉と呼ぶに到ったのです。

 そして、人生とはそうした集合的無意識と意識とが様々な葛藤を繰り返しながら、やがて一つに統合され、その人固有の心のあり方を作り上げていく〈個性化〉のプロセスである、と考えるようになったのです。

 そうしたフロイドやユングの無意識の捉え方=深層心理学は、二十世紀に誕生したものですが、不思議なことに早めに見て二、三世紀のインドにはすでに、ある意味での深層心理学が確立されていました。

 大乗仏教の理論の一つで、「唯識学」といいます。

 特に理論的に完成された四、五世紀には、人間の心の中には、自分でわかっているつもりの五感と意識以外に、もっと深い心の奥底があることが理論的に捉えられています。

 簡単にいうと、自分だけで存在できる自分というものがあるという思い込みとこだわりの領域=マナ識と、いのちを維持しそれにこだわる心の底の領域=アーラヤ識があるというのです。

 私たちには、あまり自分にこだわるのはよくないとわかっていても、なぜか、どうしても自分にこだわるという心の働きがあります。

 つまり、意識で理解し、意思的にコントロールしようとしても、どうにもならないエゴの働きが、心の奥にあるようです。おおまかにいうと、それが〈マナ識〉です。

 そしてさらに、生命というものは生まれて、育ち、老い、死ぬのが自然なことだといくらわかっていても、どうしても、それを自然に受け容れることができず、生命に執着し、死ぬのを恐れる心があります。

 その源になっているのが〈アーラヤ識〉です。

 このアーラヤ識は、意識や身体がなくなっても、前世から現世、そして来世へと輪廻していくものだと考えられています(説明するスペースがありませんが、これは「魂」ではありません)。

 こうして見ていくと、深層心理学の心の捉え方の意識と個人的無意識と集合的無意識という図式と、唯識学の意識とマナ識とアーラヤ識という心の捉え方は、どちらも三つの層から成っていて、これは単なる偶然だとは思えません。

 もちろん、いろいろな違いはあるのですが、筆者は、これは同じ〈心〉というものを、それぞれやや別の角度から見たために出来た理論上の違いであり、矛盾・対立するものではなく、人間の心をより深く、より豊かに理解する上で補い合うものではないかと考えています(詳しくは拙著『唯識のすすめ』NHKライブラリーをご覧下さい)。

 自分でわかっている部分だけが自分の心ではなく、自分の知らない、そして家族や先祖や民族や人類にまで連なり、前世から来世にもつながった、心の深みがあるということは、考えようでは恐いことです。

 しかしそれは、見方しだいでは、人間が狭い個人性や現世だけに限定された存在ではないことを示しているという意味で、畏怖を感じざるをえないほど人間というものの不思議さ、豊かさ、深さを感じさせてくれることでもあります。

 〈集合的無意識〉や〈アーラヤ識〉という考え方を知ることは、自分の心の測り知れない深みをかいま見ることです。

 そして、かいま見た後、恐さのあまり目をそらすか、それとも惹かれて見入るか、それを決めるものは何なのでしょうか。

 それ自体が、集合的無意識・アーラヤ識なのかもしれませんし、〈縁〉ということなのでしょう。

                     *

 ようやくレポートの採点がすべて終わり(ほっ)、唯識の本格的な授業に入るつもりだったのですが、また別の用事ができました。

 must化はしないつもりなので、無断休講しようかと思ったのですが、なんとなく落ち着かないのと、ふと前に書いた唯識のポイントに関わる文章(’02.5 『東京福祉会だより』)をみなさんに読んでもらいたいなと思ったのとで、今日は、以上、転載しました。

 明日は、休講かもしれません。よろしく。


にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3、4(8)、5、6、∞

2006年02月03日 | 心の教育

 「唯識を学ぶと」のところで引用した学生のレポートにうまくまとめてくれてあったように、唯識のポイントは、3と4(とその倍数8)と5と6と∞(無限大)に関する唯識のコンセプトがわかったら、だいたいつかめます。

 私はまだ若くて貧乏だった頃(今は若くなくなって、しかも金持ち父さんにはなっていませんが)、どちらかというと勉強のできない子のための学習塾をやっていて、相手があまりできない子ですから、いろいろわかりやすく、覚えやすくするための工夫をしました。

 その癖が抜けないのか、必要以上にむずかしい話をするのが好きではなく――自慢ではないけれど…単なる自慢ですが、やろうと思えばできるんですよ――「早い話が…」と大切なポイントをお伝えするのが得意になりました。

 唯識は、専門的に学ぶととても難しいとされています。

 「桃栗三年、柿八年」をもじった「唯識三年、倶舎八年」という言葉があって、まず仏教の基本的な概念を倶舎論で八年学んで、その後でもう三年学んで、ようやくいちおうマスターできる(いちおう、です)とされてきました。

 でも、私は大学では後期だけで伝えますから、「早い話が…」、「唯識半年(はんねん)、倶舎はなし」ですね。

 まず、3、4(と8)、5、6、∞、と覚えてください。

 3は「三性(さんしょう)」、

 4は「四智(しち)」、

 8は「八識(はっしき)」、

 5は「五位説(ごい)」、

 6は「六波羅蜜説(ろくはらみつ)」、

 ∞は「無住処涅槃(むじゅうしょねはん)」、です。

 「急がば回れ」ということわざもあります。今日はここまで。

 よかったら、「唯識を学ぶと」のまとめをざっと見ておいてください。

 「なんかムズカシソウ」と思った方、「学びに終わりはない」のところの学生の感想を見てみてください。だいじょうぶです。

 参考までに、もう一つ(4年の女子学生のものです)。

                    *

 後期から仏教心理を受講して、仏教の教えが私たち人間や全ての命あるものがよりよい人生を送るためのものであり、その思想・教えの正しい理解・解釈によって、それらが普遍的なものとしての教えにとどまらず、より洗練された個人の思想となり、私たち一人一人の一度きりの人生を有意義でかけがえのないものにしてくれるのではないだろうかと感じた。

 また、仏教の教え・思想は私たちすべての人に通じる集合的無意識となっているのではないだろうか。そのため、仏教の教えは学ぶというよりも、それらを想起させる過程ではないかと私は感じた。

                     *

 学ぶというより思い出す、のですから、ムズカシクナイ!

 あ、記憶喪失ぎみだと、かえってムズカシイかもしれないですけどね。



にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ただ心だけ」とは?

2006年02月02日 | 心の教育

 「唯識」の原語(のカタカタ表記)は、「ヴィジュニャプティ(認識する心)‐マートラター(ただ~のみ)」で、「ただ心だけ」という意味です。

 この「ただ心だけ・唯識」というのが、学派のモットーであるわけです。

 学派としては、「ヴィジュニャーナヴァーディン」といいます。

 瞑想・禅定(ヨーガ)を深く探求したので、「瑜伽行派・ヨガチャーラ」とも呼ばれます。

 ここから予想できるとおり、「唯識学」とは、禅定といういわば臨床体験を元にして迷いから覚りへという心の変容の体験をきわめて明快に理論化したものです。

 私は、そういう意味で「大乗仏教の深層心理学」と評しているわけです。

 しかし、面倒ですがここで一言いっておかなければならないのは、伝統的な唯識には2つの側面があり、ここでは、ほとんどその1つの面についてのみお話ししていくつもりだ、ということです。

 まず1つは、今もいったとおり、心の変容についての理論という面で、現代的にいえば心理学的な側面です。

 あるいは、哲学的には認識論的な側面といってもいいでしょう。

 この面の唯識の洞察は、学んでみると現代の私たちにとってもきわめて説得的で、どんな心で生きればいいのかということについてすばらしい道しるべ・ヒントになります。

 もう1つは、「すべての存在は心が作り出したものである」という唯心論的な存在論という側面です。

 こちらは、哲学的には興味深いものがあるのですが、私たちの心の外に心とは独立にいろいろなものがあるということが常識になっている現代人には、なかなか理解・納得ができません。

 そこで引っかかっていると、せっかくのすばらしい道しるべという面を活かすことがむずかしくなってしまうので、私は臨床的・実用的な有効性という視点から、この面についてはふれないことにしています。

 「すべての存在はただ心が作り出したもの」ということはなかなか納得できなくても、「すべてのものがどう見えるかはただ心のあり方しだい」ということなら、ちょっと考えていくとすぐにわかってきます。

 そして、「ただ心のあり方しだい」で悩んだり、苦しんだり、迷ったりしている人間が、「ただ心のあり方しだい」で爽やかで、楽しく、まっすぐな人生を送れるように変わることができる、ということをきわめて体系的・説得的に教えてくれるところが唯識のミソだ、と私は評価しているのです。

 例えば、子どもたちのきゃっきゃっと遊ぶ声は、こちらの心がいらだっていると「うるさいもの」に聞こえ、こちらの心がおだやかだと「楽しそうでかわいいな」と感じられます。

 おなじ「もの」のようでありながら、まるで別の「もの」のように感じられるのですね。

 何よりも、おなじ――のように思える――人生が、「ただ心のあり方しだい」で、まるで変わってきます。

 ですから、「心のあり方」をどうするかは人生の最重要課題だ、といってもいいでしょう。

 心のあり方をどうすれば、いい人生が送れるか、これから唯識が教えてくれるすばらしいヒントを学んでいきましょう。


*写真は、先日、箱根ガラスの森美術館で見たヴェネチアン・ガラスのグラスです。
 あなたの心には、美しいと見えるでしょうか。それとも、どうってことはないというふうに見えるでしょうか。
 あなたの趣味(つまり心のあり方)しだいですね。


にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唯識:コスモスからのメッセージ

2006年02月01日 | 心の教育

 「唯識(ゆいしき)」は、『解深密経(げじんみっきょう)』や『大乗阿毘達磨経(だいじょうあびだつまきょう)』などを元に、さらに体系化された大乗仏教の理論です。

 「識=心」へのくわしい洞察があり、しかも心の無意識の領域・深層心理のみごとな解明がなされているので、私は「大乗仏教の深層心理学」だと評しています。

 ここで、「あ、ムズカシソウ」と引かないでください。

 大丈夫です。これまでの学生の感想にもあったとおり、がんばれば、ポイントは必ずわかります。

 学問としての唯識は、理論としては確かに難解であり、膨大な文献もあるのですが、私たち自身の心がどうなっているのかを知るためのヒントとしてのポイントは、そんなにむずかしくはありませんし、膨大な知識は必要ありません。

 私の授業では、詳細・緻密・難解な唯識学全体ではなく、元気に生きるためのヒントになるポイントにしぼって紹介することにしています。

 とはいっても、最小限の歴史的知識などはお伝えしておいたほうがいいでしょう。

 唯識の理論を体系化したのは、マイトレーヤ(弥勒、みろく、350-430)、アサンガ(無着・無著、むちゃく・むじゃく、395~430)、ヴァスバンドゥ(世親、せしん・せじん、400~480)という3人の仏教哲学者――「論師(ろんじ)」と呼ばれます――です。

 マイトレーヤは、伝統的には弥勒菩薩と同一視されてきましたが、現代では同名の論師がいたのであろう、ともいわれています。

 歴史的実在が確実なのは、次のアサンガ・無着からです。

 代表的な著作として『摂大乗論(しょうだいじょうろん、マハヤーナ・サングラハ)』があります。

 私は、これを漢訳から現代語訳(コスモス・ライブラリー刊、星雲社発売)しており、そのタイトルにちなんで私の研究所を「サングラハ心理学研究所」としています。

 また、その内容の概説として『大乗仏教の深層心理学――摂大乗論を読む』(青土社)を書いています。

 この入門授業を受けた後で、もっと学びたくなったら、取り組んでみてください。

 次のヴァスバンドゥ・世親は、アサンガ・無着の肉親の弟で、インド唯識学の大成者といわれます。

 たくさんの著書があるのですが、もっとも代表的なものが『唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)』です。

 私は、これについても、『唯識の心理学』(青土社)という入門的な解説書を書いています。

 後に、唐代の有名な訳経家・玄奘三蔵(?-664)とその弟子基(窺基、きき、632-682)が、インドで出来た『唯識三十頌』に対する10の注釈書を編集して1冊にまとめた『成唯識論(じょうゆいしきろん)』が、中国と日本の唯識を学ぶ学派である「法相宗(ほっそうしゅう)』の基本的な聖典になっています。

 このあたり、もう少しくわしく歴史的なことを知りたい方は、拙著『唯識のすすめ――仏教の深層心理学入門』(NHKライブラリー)の第1章「唯識の来た道」、さらにくわしく知りたい方は、横山紘一『唯識思想入門』(第三文明社レグルス文庫)の第1章「唯識思想の展開」などをお読みください。

 ただまとめて考えておきたいのは、2、3世紀インドに始まり、4、5世紀大成された唯識は、6、7世紀中国に伝わり、7世紀中国・唐に派遣された遣唐使の学僧たちが玄奘三蔵から学んで日本に伝え、多くの人々の努力によって現代にまで伝えられたものだということです。

 この1800年のつながりは、さらにゴータマ・ブッダまで2500年つながり、さらにホモ・サピエンスの数十万年につながり……生命40億年、地球46億年、宇宙137億年の歴史に、どこにも切れ目なくつながっています。

 これは、とても不思議なことですね。

 私にとって唯識は、137億年かけて私に届いた「コスモスからのメッセージ」のように思えることがあります。


にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講座案内

2006年02月01日 | メンタル・ヘルス

  サングラハ心理学研究所
 18期オープンカレッジ ご案内


初心者のためのやさしい坐禅入門 ご案内

 みなさん、お元気ですか。今年は、久しぶりに冬らしい寒い冬になりました。

  春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて涼しかりけり

という道元禅師の歌の最後の句が実感できます。寒さに負けず、学んでいきましょう。

 今年も、授業や講座を受けた方の中から、一度坐禅を体験してみたい、坐禅の仕方をおぼえたいという声がありますので、坐禅の入門講座を企画しました。

 ぜひ多くの方に体験していただきたく、昨年に続き、安い参加費にしました。

 「やってはみたいが、ちょっとこわい」「足が痛いんじゃないか」「棒でたたかれたりするんじゃないか」とこわがっておられる方のために、サングラハ式はスパルタ式と反対で、とてもソフトにご指導します。

 警策(肩をたたく棒)を使ったり、怒鳴りつけたりということは一切しません。

 また、なるべく足の痛い思いをしないように、ていねいな準備の柔軟体操もご指導します。

 「黙って坐れ」ではなく、「わかって坐ろう」がモットーで、必要な説明は十分に行ないます。

 体をととのえ、呼吸をととのえ、心をととのえる――この一見シンプルな方法は、実はとても深いもので、いったん身に付けると一生の精神的財産になるでしょう。

 といっても、あまり構えないで、まず最初は気楽に心の洗濯-リラクセーションのつもりでお出かけ下さい。

 入門者だけでなく、再入門の方も、坐禅を教えられるようになりたい方もぜひどうぞ。

●日時:2月17日(金)午後12時~5時頃

●会場:不二禅堂(小田急線普通で新宿から2駅め「参宮橋」の1つだけの改札を出た道を左、最初の2叉路を左(ゆるやかな下り坂)、その後参宮橋商店街を直進(青少年センター方面への左に直角に入る道に行かないように注意)、マルコウストアの先のT字路も左(ややきつい上り坂)、徒歩約5分で道の左側。看板がありますが、一軒手前の3階建てマンションの陰に隠れてあまり目立たないので要注意。)

●指導者:サングラハ心理学研究所主幹・岡野守也

●参加費:一般2000円、会員1500円、学生・準学生1000円

●テキスト:『サングラハ実践の手引き』『サングラハ第78号』(『坐禅義』講義)。お持ちでない方には当日配布します。

●持参品:筆記用具、軽い運動のできる服装


A講座:「ストレスを軽減する智恵論理療法etcを人生の現場で使えるようにするためのコース」

                          於 ヒューマン・ギルド(地下鉄東西線神楽坂) 
                           1/17, 31   2/14, 28  3/14, 28 火曜日全6回 

 生活の中で思いどおりにならないことがあると、私たちは「ストレスを感じる」という心の状態になりがちです。

 しかし論理療法では、私たちがどんな程度のストレスを抱えるかは、外側の状況よりも、自分の心のあり方・物の取り方に大きく左右されるのであり、心のあり方を変えれば、すべてではないにしても、相当にストレスを軽減できる、といいます。

 これは、実際にやってみると驚くほどの「相当程度」であることを、筆者も経験してきました。

 今回は、すでに学んできた方と初めての方のどちらにも、実用的・日常的に使えるところまで身につけていただくための特別コースです。

 ぜひ、お出かけください。論理療法+αもあります。

テキスト:岡野守也『唯識と論理療法』(佼成出版社)


C講座:「『禅宗四部録』を読む」

                           於 不二禅堂(小田急線参宮橋)

                           1/13, 27   2/3, 17  3/3, 17 金曜日全6回

 中級講座では、基本的には大乗仏教の深層心理学・唯識の学びを持続してきていますが、合間に、禅の古典なども学びます。

 現在は、『摂大乗論』の学びを一区切りで中断して、禅の入門的な古典『禅宗四部録』を学んでいます。

 今期は、中国禅の三祖・僧璨(そうさん)のものとされる『信心銘(しんじんめい)』の講読を行ないます。

 これは、鈴木大拙が「『信心銘』は堂々たる哲学詩で、禅旨の大要はこれで尽きている」ときわめて高く評価した名著です。

 これは研究所主幹がはじめて講義するものです。どうぞ、ご期待ください。

 なお、講義の前に30分程度の坐禅を行ないますので、坐禅のできる服装をご用意下さい。

テキスト:コピーを配布します。

●受講料は、一回当たり、一般3、5千円、会員3千円、専業主婦・無職・フリーター2千円、学生1千円×回数分です。

都合で毎回出席が難しい方は、単発受講も可能です。

●申し込み、問い合わせは
 サングラハ心理学研究所・岡野へ、E-mail: okano@smgrh. gr. jp 
または Fax0466-86-1824で。
 住所・氏名・年齢・性別・職業・電話番号・メールアドレス(できるだけ自宅・携帯とも)を明記してください。


人気blogランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする